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白井義男さんの残した言葉【世界フライ級チャンピオン】1923年11月23日~2003年12月26日

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「やっぱり『健全なるスポーツ』であるボクシングをしなきゃいかんと、これはみんなに言い聞かせてるんです。殴られて殴るのは子どもでもできる。打たせないで打つところに、やっぱり妙技があるんでね。」 「人生にはピンチばかり多くて、チャンスは極めて少ないものだ。」 日本の元プロボクサー。東京市荒川区出身。元世界フライ級王者である。日本人として初めての世界王者となり、平成世代の現在とは違い、当時は世界王座までの距離が比べ物にならないほど遠かった時代のチャンピオンとしても高い評価を得ている。右のアウトボクサー。 白井とカーンとの関係は、選手とコーチの範囲を超えるまさに「家族」と言えるものであった。引退後においてもそれは変わらず、白井の引退後も日本に永住した恩師・カーンとの交流は最後まで続いた。晩年のカーンは認知症になったが、逝去するまで白井夫妻の厚い介護を受けた。子供のいないカーンは、死後全ての財産を白井に譲ったという。 また、白井はカーンの「ボクシングビジネスに手を出してはいけない」という忠告を守った。1995年に具志堅用高とともに白井・具志堅スポーツジムを設立、同ジムの名誉会長に就任したものの、出資のみで経営はパートナーの具志堅に全面的に任せている(但し田中敏朗の要請を受け、暁ジム特別コーチを務めたことはある。)。

チャーリー・チャップリンさんの残した言葉【喜劇王】1889年4月16日~1977年12月25日

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「The hate of men will pass, and dictators die, and the power they took from the people will return to the people and so long as men die, liberty will never perish.」 (連中の恨みもやがて過ぎ去り、独裁者らも死んでしまう。そして連中が人々から奪った力は、人々に戻される。そして連中が死んでしまう限り、自由が失われることは決してない。) 「We all want to help one another. Human beings are like that. We want to live by each other’s happiness, not by each other’s misery.」 (私たちは皆、互いに助け合いたいと思っている。人間とはそういうものだ。相手の不幸ではなく、お互いの幸福によって生きたいのだ。) 「Words are cheap. The biggest thing you can say is ‘elephant’.」 (言葉はとるにたらないものだ。一番大きくても「象」としか言えない。) 「I am at peace with God. My conflict is with Man.」 (私は神とは仲が良い。私が対立しているのは人間だ。) 「I have no further use for America. I wouldn’t go back there if Jesus Christ was President.」 (私はもうアメリカに用はない。もしイエスが大統領であっても、私はあそこには戻らない。) 「This is a ruthless world and one must be ruthless to cope with it.」 (この世界は無情な世界です。人はそれに対処するために無情でなければなりません。) 「I do not have much patience with a thing of beauty that must be explained to be understood. If it does need additional inte...

逸見政孝さんの残した最後の言葉【アナウンサー】1945年2月16日~1993年12月25日

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「三番が正解です」 (最後の言葉) 日本のフリーアナウンサー、タレント、俳優、司会者、ニュースキャスター。元フジテレビアナウンサー。大阪府大阪市阿倍野区出身。妻は逸見晴恵、逸見太郎は長男、逸見愛は長女。 「アナウンサーの仕事の中で一番好きな仕事は何か?」と質問された逸見は「インタビュー」であると答えている。実際に『夜も一生けんめい。』や『いつみても平平凡凡』など、トーク番組の司会の仕事経験から「同じインタビューでも、タレントの聞き方とアナウンサーの聞き方はまったく違う自負がある」と発言。また、「『夜も一生けんめい。』で下手な歌を歌っていられるのも、その前のトークパートではきちんと仕事をしているという自信があるからだ」とも発言している。逸見は「自然体だが鋭く切り込んでいく」スタイルのインタビューを理想としていた。自らが取材やインタビューをする立場を経験していることもあり、逆に取材やインタビューを申し込まれた時には、極力受けるようにしていたという。ただし、インタビューへの思い入れの強さもあってか、特に若手の記者・インタビュアーへの評価はかなり厳しかった。 一般的に「マジメ」と思われていた逸見だが、著書『新版 逸見政孝 魔法のまじめがね』では、山城新伍とビートたけしの親友2人が揃って「マジメだとは思わない」と述べた。山城は「必要以上に人に気を遣う人。良しにつけ悪しにつけテレビ人間と思える節がある。もう少し無責任になった方がいい」と述べた。また、直接「もう少し悪人になってもいい」とアドバイスしたこともあるとし、本人は笑って否定したという。たけしは「逸見さんみたいな人は、今だからマジメと言われるだけで、昔なら不マジメ。昔は一つのものに集中する人がマジメだったが、逸見さんは色んなことに夢中になっているからね」と述べている。

池田貴族さんの残した最後の言葉【霊感タレント】1963年5月8日~1999年12月25日

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「行かなくてもいいんじゃないか。ずっと一緒にいたいんだ」 (娘のクリスマスプレゼントを買うために病室を出ようとする妻へ) (最後の言葉) 日本のミュージシャン、評論家、作家、心霊研究家。本名は池田 貴。 愛知県名古屋市出身。ホリプロ所属。1990年、ロックバンド・remoteのボーカリストとしてシングル「NO!」でデビュー。その後、音楽活動以外にも霊感タレントとしてテレビ番組などへの出演で知られる。左利き。娘はインディーズ歌手の池田美夕。 バンド活動を続けながらも、テレビ朝日の『プレステージ』などにて霊感能力を発揮し、以後霊能タレントとして活躍するようになる。幼少時からは見知らぬ人に、未来のことを教えられることがあり、その人達は周囲に見えていなかったようである。 きっかけは、ホコ天時代に心霊写真が偶然撮影されたことである。具体的な霊能力としては、心霊スポットなどに行くと、そこで起きた事件などが頭に浮かぶという。なお、父親は真言密教の霊能師であり、母も強い霊感を持っているという。霊能力者としての師匠は池田辰雄。パワーストーンなどについても造詣が深い。

ジェームス・ブラウンさんの残した言葉【ファンクの帝王】1933年5月3日~2006年12月25日

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「リスクを決して恐れない。常に挑戦を繰り返す。」 アメリカ合衆国のソウルミュージック、R&B、ファンク・シンガー、音楽プロデューサー、作曲家、編曲家、レコード・レーベル経営者。 「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニック・ネイムを持っていた。シャウトを用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドがブラウンの音楽性の特徴である。 父はアパッチ族インディアンで、母はアフリカ系黒人アメリカ人とアジア人の系統である。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第10位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第7位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第37位。

加島祥造さんの残した言葉【求めない】1923年1月12日~2015年12月25日

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「静けさと平和さ。このふたつを得るには、いま自分の持つものに満足することさ。」 「プライドばかり高い人間には誰もついてゆかない。強い力で押しまくる時、かならずしっぺ返しがくる。」 「世間が『よし』とか『だめ』とか言ったって、それが君にとって何だというんだね?」 「動物園の檻に入れられた動物たちと同じようなものだ。社会のなかには様々な檻が存在している。そこにいる窮屈さから逃げ出そうと、もがいている人間もいるだろう。ほんとうの生き場所に行こうとしてね。でもそれは無意味なことだ。なぜなら、今いる檻から抜け出しても新たな檻が待ち受けている。いつも何かに閉じ込められている。それが社会で生きているということだ。受けいれるという姿勢を身につけることが社会を生きやすくする方法なのかもしれない。」 「求めない。すると 比べなくなる。」 「すべての欲望を捨て去ることなどできない。また、そこまでする必要もない。ただ、あまりにも不必要なものに囲まれていると自分とは何者なのかが見えにくくなってくる。」 「終戦後の日本には何もなかったから人々は多くのモノを求めて働いてきた。そして日本は、モノがあふれる社会になった。もういい加減、求めることはセーブしたほうがいい。自分にとってほんとうに必要なものは何か。不必要なものまで求め過ぎていないか。そんなことをしっかりと個々人が考えることが大事。」 「『幸福とは何か』という問いかけには答える気にならない。ほんとうにそんな抽象的なものを求めているのだろうか?」 日本の詩人、アメリカ文学研究者、翻訳家、随筆家、タオイスト、墨彩画家。 詩作のみならず、アメリカ文学の翻訳にて名声を得た後、壮年期より漢詩を経て老荘思想に大きな影響を受け、文筆のみならず絵画なども含めた幅広い創作活動や執筆活動を通して、西洋と東洋の双方を見渡す位置からタオイストとしての一貫した姿勢を私生活でも死去するまで徹底した。 翻訳関係の仕事では、訳書により、一ノ瀬直二、久良岐基一といった別名義を用いて活動しており、死後になって、関係者よりその事実が改めて説明がなされた。

ジョージ・マイケルさんの残した言葉【ワム!】1963年6月25日~2016年12月25日

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「I have never thought about my sexuality being right or wrong. To me it has always been a case of finding the right person.」 (僕は、自分の性的指向が正しいか間違っているかなんて考えたことがない。僕はずっと、運命の相手を見つけようとしてきただけ。) 「If we weren’t friends in the first place we wouldn’t have stayed together this long.」 (もし僕らが友達じゃなかったとしたら、そもそもこんなに長い間一緒にやらなかったさ。) イギリス出身のシンガーソングライター。本名:イェオルイオス・キリアコス・パナイオトゥ。 ポップデュオ「ワム!」 ポップデュオ「ワム!」での活動で「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」などの世界的ヒット曲を作詞作曲し、ソロシンガーとしてもアルバム『FAITH』が1988年度グラミー賞を受賞するなど成功をおさめた。トータルセールスは1億枚以上。 「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第74位。