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荒井注さんの残した最後の言葉【コメディアン】1928年7月30日~2000年2月9日

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「今度は医者の言うことをよく聞いて、早く飲んでも良いってお墨付きをもらってくるから、一緒に飲もう」 (いかりや長介さんへ) (最後の言葉) 日本の俳優、タレント、コメディアン。本名、荒井 安雄。 東京都出身。ドリフでの呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」。

荒井注さんの残した言葉【コメディアン】1928年7月30日~2000年2月9日

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「何だバカヤロウ!」 日本の俳優、タレント、コメディアン。本名、荒井 安雄。 東京都出身。ドリフでの呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」。

藤田元司さんの残した言葉【プロ野球選手】1931年8月7日~2006年2月9日

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「お前は気が小さいんじゃない、優しいんだ。だからもっと自信を持てばいいんだ。」 愛媛県新居浜市出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者・評論家。 巨人の中心投手として5度のリーグ優勝と2度の日本一に貢献し、監督としても長嶋茂雄・王貞治の後を継いで4度のリーグ優勝と2度の日本一に導いた。血液型はB型。

立松和平さんの残した言葉【小説家】1947年12月15日~2010年2月8日

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「もし迷ったら、魂に聞け。」 「自分の魂にうそをついたら、いい人生は送れない。」 「宿題で書いた小説を先生が褒めてくださって、『これはいけるぞ』と調子に乗ったんです(笑)。」 「僕はあらためて思うんですよ。好きなことをやってきて、本当によかったな、と。」 「役所を辞め、腹をくくって書いた小説が賞を取った。やっぱり人生は、覚悟を決めないとダメなんだね。」 日本の小説家である。日本ペンクラブ会員。本名:横松 和夫。筆名は本名の「横松」のもじりで「立松」にした。

江副浩正さんの残した言葉【リクルート創業者】1936年6月12日~2013年2月8日

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「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」 株式会社リクルートの創業者として知られる日本の実業家。東京大学が生んだ最大のベンチャー起業家と評されるが、「リクルート事件」の贈賄側人物としても知られる。また奨学金財団として江副育英会を創設し理事長を務めた。 東京大学在学中にリクルートを創業し、大企業に成長させた。

栄久庵憲司さんの残した言葉【工業デザイナー】1929年9月11日~2015年2月8日

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「デザインの一番の根本は、何をしたいかをはっきりさせること。使わない技術をなんとなくつなげたのでは駄目です」 「デザインが進化すれば、ロボットや宇宙ロケットがあちこちにあるような未来を思い浮かべるかもしれないが、そういうことはない」 「道具は道の具え(そなえ)。モノに心を感ずれば人に新しい世界が出来る。今までとは異なる世界が出てくる」 「未来という言葉は希望のように見えて、意外と救いにならない。これは非常に残酷なことです」 「僕にとって一番怖いのは退屈。どんなにお金があって、どんなにたらふく食えていても、退屈というのはどうしようもない」 「みんな欲が少なすぎる。もう少し欲ばりの方がいい」 「だいたいがものを決めるのに、そんなに深い考えはないものでね。相談に相談を重ねて、やっと核の部分が見えてくる」 「(終戦後の広島にて)凄惨な無に対して、僕が何を感じたかというと「『有(ゆう)』が欲しい」だった」 「道具やデザインの世界を俯瞰して見ると、横に広げれば国や文化ごとの違いがある。縦に開けばそれぞれの時代の変化がある。つまり、大きく動いている雲のようなもの」 日本の工業デザイナー。静岡文化芸術大学名誉教授。 GKインダストリアルデザイン研究所所長、世界デザイン機構会長、静岡文化芸術大学デザイン学部学部長などを歴任した。

松原正樹さんの残した最後の言葉【ギタリスト】1954年6月27日~2016年2月8日

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「僕は僕を聴き続けてくれた人に逢って話したくなった。それは自分に逢うかのように」 (最後のメッセージ) 日本のギタリスト、作曲家、アレンジャー。福井県越前市出身。ヤマハ・ネム音楽院出身。妻はキーボーディストで作曲家の南部昌江。

延藤安弘さんの残した言葉【建築家】1940年12月1日~2018年2月8日

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「そろそろ大人が考える『子どものための』から、『子ども自身の視点』へと考え方を転換してみてはどうでしょうか。自分たちで自分たちの生活の場を紡ぎ出していくということは、広い意味での環境学習にもなっていると思います。学校の学習にも今までの『わく』を超えて『わくわく』するような『ワクワクワークショップ』を取り入れてみて欲しいと思います。」 日本の建築家、都市研究者、都市計画家、教育者、地域プランナー、地域活動家。まち育ての研究と実践、人材育成のほかに各地で「幻燈会」を開いて啓蒙につとめる自称「まち育ての語り部」。工学博士。大阪府大阪市生まれ。

堺屋太一さんの残した言葉【小説家】1935年7月13日~2019年2月8日

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「ペストなどによる人口の減少期にこそ、イタリアでは手工業が発達し、ヴェニスやジェノバの海洋商業が拡大、やがて来るルネッサンスが準備された。人口が減少すると生産性の低い土地は放棄され、都市に人口が集中、手工業や海運交易が盛んになったからだ。人口減少社会でも生産性の高い分野に人口と資本を移転していけば、さらなる経済と文化の発展は可能。」 「組織が死に至る病は三つ。①機能体の共同体化 ②環境への過剰適応 ③成功体験への埋没」 「人間はそれほど器用には変われない。生まれ育った環境や積み上がった記憶、身に付けた知識や技能、獲得した地位や資格などに拘泥するからだ。そして、その人間の集団である組織は、更に変わり難い。組織は過去の実績で組み立てられ、それぞれのポストを占める人々の利害に繋がれている。これから人生を始めようとする青少年は、このことをよく知っておくべきだろう。今を盛りと繁盛している組織や職業でも、30年のうちには衰亡する可能性は大きい。」 「いまの日本は様々な改革が必要ですが、各方面を説得し、実行するのはきわめて難しい。そこで必要なのは、すべての基礎、つまり世の中の基(もと)を変えることが必要です。崩れかかった大伽藍をあれこれ補修するのではなく、その基盤構造を入れ替えるのです。世の中の基礎中の基礎、それは人々の持つ価値観、何が楽しく、何が正しいかという価値観です。」 「官僚は政治家(大臣)の部下ではありません。官僚は官僚機構にのみ忠実なものです。政治が人気と腕力を失った結果、官僚主導が甦ったのです。」 「今や日本は世界一安全です。けれど、全然楽しくない。安全だけでいいなら監獄に入ればいい。それでもみんな入りたがらないのは、幸福を追求できる選択性がないからです。これからの日本は、『楽しい日本』『多様な社会』にしなきゃいけない。」 「官僚も普通の人。聖人でも悪人でもない。職場での居心地と将来の出世が気にかかる。それを決めるのは同じ府省に勤める仲間の評判だ。仲間の評判を高めるには、それぞれの府省の予算を増やし、組織を伸ばし、規制権限を広げることである。景気をよくし、経済を活発にする規制緩和に官僚たちが抵抗するのは当然だろう。」 「組織のリーダーや経営者は、自分が所属する組織が、『死に至る病』に取りつかれていないか、急いで総点検していただきたい。組織が「死に至る病...

岩崎弥太郎さんの残した言葉【三菱財閥創業者】1835年1月9日~1885年2月7日

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「酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない。」 「人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ。」 「小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。」 「自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ。」 「機会は、人間一生のうちに誰でも、一度や二度は必ず来るものである。それをとらえそこねると、その人は一生立身できない。」 「樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ。」 「機会は魚群と同じだ。はまったからといって網をつくろうとするのでは間に合わぬ。」 「創業は大胆に、守成は小心たれ。樽よりくむ水にまして、洩る水に留意すべし。」 「部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし。」 「よく人材技能を鑑別し、すべからく適材を適所に配すべし。」 「勤倹身を持し、慈善人にまつべし。」 「奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず。」 「国家的観念をもって、すべての経営事業にあたるべし。」 「断じて投機的な事業を企つるなかれ。」 「一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず。」 「小事に齷齪(あくせく)するものは大事ならず。よろしく大事業経営の方針をとるべし。」 「およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは必ず後に大きな利益をもたらすからである。」 日本の実業家。三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。諱は敏、雅号は東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く。

千石正一さんの残した言葉【動物学者】1949年4月23日~2012年2月7日

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「なるべく自然へのダメージを少なくしつつ、かつ最大限に自然を楽しむことを覚えて欲しい。自然は楽しめるものだし、楽しめばその素晴らしさが分かるからです。そしてその素晴らしさを知ると、それを失うことが、どんなに悲しいことか実感できる。」 東京都世田谷区出身の動物学者。主に爬虫類と両生類を扱っていた。 血液型はAB型。

河上和雄さんの残した言葉【法学者】1933年4月26日~2015年2月7日

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「34年間、検事として刑事事件の捜査に携わってきた弊害なのかもしれないけど、どうしても人間というものに対して性善説はとれない。大多数の人間は、後天的な教育によって、かろうじて踏みとどまっているんじゃないですか。言いかえると、誰でも育つ環境、この環境というのは家庭と学校、それに近隣社会の3つなんですけどね。この環境次第で犯罪者にもなるし、立派な人間にもなれると。」 「34年間、検事として刑事事件の捜査に携わってきた弊害なのかもしれないけど、どうしても人間というものに対して性善説はとれない。大多数の人間は、後天的な教育によって、かろうじて踏みとどまっているんじゃないですか。言いかえると、誰でも育つ環境、この環境というのは家庭と学校、それに近隣社会の3つなんですけどね。この環境次第で犯罪者にもなるし、立派な人間にもなれると。」 「私の場合、東京地検の特捜部長、最高検察庁公判部長と、世渡りベタなわりには、結構、陽の当たるところを歩いてきていてね。あとは検事総長になるか、最局裁の判事になるしかないって、人生の先行きが見えてきたわけですよ。はたして、この仕事だけで一生を終えていいのか?『つまらないな』と。最局裁の判事なんて、あんな退屈でつまんない商売はないしね。検事総長もたかが知れているというか、過去に何人ものトップを見てきたけど、本当に尊敬できる人っていうのはせいぜい2人ですよ。あとは、どうしようもないヤツばっかりで……。もちろん、形の上では仕事をちゃんとやってますよ。だけど、精神的にはなんの魅力もない、そんなつまらない人生は歩みたくないですから。」 「テレビの出演に関しても、胡散臭そうな番組には出ないと決めています。だいたいタレントと一緒になってワイワイキャーキャーやるような番組って、面白いんですよ。タレントとも、ある程度知り合いにもなれるだろうしね。でも、そういうことをしてしまったら、これまで過ごしてきた自分の人生を汚すことになるので、やめようと。」 「自分のことを弱い人間だとわかっていればいいというか、弱ければ『こういうことはしない』とか『人に背中を見せない』とか『人をうらやむことはしない』と自分の縛りを作っていけばいいんですよ。そうやっていくうちに気がついたころには、自分なりの生き方っていうのが見えてきますから。」 「検事を34年やって思ったのは実際、人間と...

板倉聖宣さんの残した言葉【教育学者】1930年5月2日~2018年2月7日

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「どっちに転んでもしめた。」 「多くの若者を見ていると『妥協したくない』ことが先行して、少し困難にでくわすとすぐに理想を捨ててしまうことが多いようです。理想を捨ててしまえば妥協もなにもなくなってしまいます。問題は妥協しても理想を捨てないことなのです。」 日本の教育学者。「仮説実験授業」の提唱者として知られる。理学博士。自称「いたずら博士」。板倉研究室室長。

パット・トーピーさんの残した言葉【ミュージシャン】2018年2月7日

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「MR.BIGがバラードを沢山やるバンドだと思ったことは、僕は一度もなかったが、確かにそういう風に考えていた人は大勢いたね。」 「MR.BIGは、皆、本当にいいヤツばかりなんだ。誰も暴れたりしないし、手に負えない人もいないし、いわゆる問題児もいない。ほかのバンドだと、名前は出さないけど思い浮かぶ人は結構いる。」 「次のステップは明日だよ。1日1日をこなしていく。明日起きてから、続けるために何をやるべきか考えるよ。」 「MR.BIGは、皆、本当にいいヤツばかりなんだ。誰も暴れたりしないし、手に負えない人もいないし、いわゆる問題児もいない。ほかのバンドだと、名前は出さないけど思い浮かぶ人は結構いる。」 「バンドにとって大事なのは、皆が同じ方向で考えていることだと思う。何人もが集まった時に、全員が同じ方向で物事を考えていれば、凄いパワーが生まれるよ。」 「この4人の間に起こるビッグなケミストリーがあるんだ。そんなのは僕達に限ったことじゃないけど、最近のバンドでそういうケミストリーを持っているように見える人達は殆どいない。」 「ロックンロールだからって、必ずしもビッグなプロダクションでメガラウドにプレイしなくてもいい。アコースティックで充分にそのメロディや感情を伝えることが出来るんだから。」 「僕らがプレイする。皆が喜ぶ。僕らは皆をもっと喜ばせるものは何だろうと考える。それがインスピレーションだ。音楽はそうやって環を描き続ける。」 「僕としては、もうこれ以上叩けない!というまでやる気はあるよ。だってMR.BIGというのは本当に特別なバンドだからね。」 「僕はかなり楽観的な人間なんだ。毎朝、微笑みを浮かべて1日を始めたいと思っている。先のことなんて誰にも判らないしね。物事はなるようにしかならない。」 「世の中には人々を1つにする色んな手段があるけど、やっぱり音楽はその中でも最もパワフルなものだ、とツアーしていると実感させられるよ。」 アメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、ドラマー、ソングライター。

フランク・ロビンソンさんの残した言葉【プロ野球選手】1935年8月31日~2019年2月7日

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「自分の能力を超えたことをやろうとしちゃいけない。だが、絶対に自分の能力以下で行動するな。」 MLBの元選手・監督。 史上初めてMLB両リーグでMVPに選出され、アフリカ系アメリカ人初のMLB監督となった。

ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼンさんの残した言葉【ラグビー選手】1971年2月20日~2017年2月6日

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「人生は生きた年数の量ではなく、作られた思い出の量によって評価されるのです。」 (最後の言葉) 1990年代後半の南アフリカ共和国のオランダ系の元ラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ。南アフリカ代表でのキャップ数は89を数える。ラグビーのプロ化が進んだ90年代で世界最高のスクラムハーフと言われている。

ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼンさんの残した最後の言葉【ラグビー選手】1971年2月20日~2017年2月6日

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「私はこの困難に立ち向かう。たとえそれが、私にできる最後のことだとしても」 (最後の言葉) 1990年代後半の南アフリカ共和国のオランダ系の元ラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ。南アフリカ代表でのキャップ数は89を数える。ラグビーのプロ化が進んだ90年代で世界最高のスクラムハーフと言われている。

ジョン・ペリー・バーロウさんの残した言葉【詩人】1947年10月3日~2018年2月6日

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「私にはわかっている。『未来を発明するのによい方法は、それを予言することだ』というのもまた真なり、と。だから私はユートピアを予言したんだ。ムーアの法則やメトカーフの法則が、エドワード・スノーデン氏の名付けた『ターンキー方式の全体主義』を達成する間に、自由になんとか助走期間を与えたいと願って。」 「私は、新しいシステムを創造する前に、古いシステムがその可能性を壊してしまうことを防ごうとしている。それがグレイトフル・デッドモデルやフリーソフトウェア/オープンソースモデルなどだとしても、スタートする前に十分に実践される余地を保証する必要がある。しかし現在起きているのは、伝統的出版業界がそれを重要視せず潰そうとしていることだ。」 「この法律は、汝ら自身の憲法を否定し、ジェファーソン、ワシントン、ミル、マディソン、トクヴィル、ブランダイスの夢を侮辱する。彼らの夢は、今こそ米国の地に再生されねばならない。」 「我らは、人種、財力、武力、出生地による特権や偏見なしに、すべての者が立ち入ることができる世界を創りだしていく。我らは、誰もが、どこからでも、自らの信条を表明できる世界を創りだしていく。それがいかに特異なものであれ、沈黙や服従を強いられることを恐れる必要はないのだ。」 「工業世界の政府よ、汝、肉と鋼の疲れたる巨人よ、我は新たなる心の棲み処、サイバースペースより来たる。未来の名において、過去たる汝に要求する。我らに立ち入ってはならぬ。歓迎されざる者よ。我らの集いし場所に、汝の統治は及ばぬ。」 「独立宣言の趣旨は、サイバースペースが統治権とは無縁のものだ、ということだ。それは常に変わらないだろう。当時もそう信じていたし、今でもそれは正しいと信じている。」 アメリカ合衆国の詩人、エッセイスト、元牧場主、政治活動家、作詞家。電子フロンティア財団共同設立者、副議長。ワイオミング州サブレット郡生まれ。 1969年にウェズリアン大学で比較宗教学の学位を取得。

ジーノ・ロートさんの残した言葉【ミュージシャン】1956年6月30日~2018年2月5日

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「人生で満たされたない(幸せでない)と感じる一番の理由は、自分達が人間という存在であるからだと思う。」 「私達はみな美の素質を持ち、そして可能性を持って生まれてくる。重要なのは、それらを内外部から上手く刺激していくことだ。」 「人間、希望だけでは生きていけない。生きていくためには稼がなくてはいけないんだ。」 「この世界を変えるために戦う中でもっとも効果的な“武器”となるのは、現状を変えるための真の長く続く代替(オルタナティヴ)を創り出すことである。そして、その力の源となるのが魂の力なのだ。」 「アーティストというのはドイツでは認められていないんだよ。ドイツで『私はミュージシャンだ』と言っても、『なるほど。それで仕事は?』と言われる。ドイツでは総てを金で測るんだ。」 「高校時代はマティアス・ヤプス(SCORPIONS)とずっと仲が良く、学校の帰り道に馬鹿話をしたり、一緒に音楽を聴いたり、2人でパガニーニを礼賛したりしたものだった。」 「己の存在という長く困難な迷路に戸惑い、行く先の道を照らすものがないと感じた時も、山のはるか向こうにあるかもしれない運命を信じて歩き続ける。人生とはそういうものだ。」 「可能性を限定してしまうのは、あなた自身なのだ。自分自身の肉体を超えてみると、内包されていた未知の感覚を感じることができる。」 「時間の枠組みというのはゴムで出来ていて、伸ばそうと思えばいくらでも伸ばせるものなんだよ。」 「Do not follow any one but the voice of your own true Self.」 (自分自身の内なる声を聴け。ほかの声には惑わされるな。) 「Our senses are limited only to the extent that we limit our Selves. Transcend the merely physical aspect of your existence, and your inner senses will grow.」 (可能性を限定してしまうのは、あなた自身なのだ。自分自身の肉体を越えてみると、内包されていた未知の感覚を感じることができる。) 「The future lies in our hands. After times of dark, Rebirth...

堀文子さんの残した言葉【日本画家】1918年7月2日~2019年2月5日

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「本当にやりたかったことは忘れずに諦めないでいれば、何十年と月日が過ぎても、不思議とチャンスはやってくるんです。いくつになっても、誰にでも、あきらめなければそのチャンスはきます。」 「『反省なんてしたらダメなんです。反省したら前のところに留まってそこから上には行けないのです。』反省は、失敗したことを叱るお説教みたいなものですから、これから進む前に戻れということになるわけでしょう。」 「私は人に迷惑をかけますから、ひとりを選ぶんです。私には習慣性がないんです。同じことの繰り返しが嫌いなんです。人を見るときも本能で、好きか嫌いかで、損得ではきめません。地位や名誉、肩書きなんてうつろいやすいもので、それにふりまわされないようにすることです。」 「私も機嫌よく死にたい。生き生きと死にたいということは、たくさんの先輩から学びました。そういう方がこの世からどんどん消えていきます。老残のかけらも見えぬ、阿部なを先生の迫力の原動力が知りたかった。『死ぬまでに体の悪い所は直しておかないと。』何というすごい生き方だ。」 「現状を維持していれば無事平穏ですが、新鮮な感動からは見捨てられるだけです。私は岐路に立たされたときは必ず、未知で困難な方を選ぶようにしています。」 「嘘をついたり、ごまかしたり、飾ったりしていると、自分の体のなかに自然があることがわからなくなってしまう。細胞もおかしくなるに違いない。嘘をつくと嘘の電流が体のなかに流れるんだと思います。」 「身体が衰えてきますと、誰でもが何もできない諦めの老人と思うでしょう。(けれども、私は知らなかったことが日に日に増えてきます)いままで『知っている』と思っていたことが、本当は『知らなかった』と。それが、だんだんわかってくるのです。」 「群れをなさないで生きることは、現代社会ではあり得ないことです。何をするにしても誰かと一緒にしなければならない。それを私はしないよう道を選んで、私のような職人にはよかったと思います。」 「人間誰でもいろいろな意味で、悩んだり、悔しかったり、ひどい目に遭ったり、生きるということは毎日が大騒ぎじゃないですか。そんなときに、お説教されるのは嫌ですが、何か自分の気持ちに相応しい言葉と出合ったりするのは嬉しいものです。」 「みんなひとりが寂しいといいますが、人といれば本当に寂しくないのかしら?人は...

エドガー・ミッチェルさんの残した言葉【宇宙飛行士】1930年9月17日~2016年2月4日

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「嬉しかったのは、宇宙には調和があり、創造の力があることを感じた時だ。悲しかったのは、人間がそれを知りながらそれと反対することをしているのに気づいた時だ。」 アメリカ合衆国のパイロット、工学者、宇宙飛行士。アポロ14号のアポロ月着陸船のパイロットとして9時間を月で過ごし、月面を歩いた6番目の人間になった。

福沢諭吉さんの残した最後の言葉【慶應義塾創設者】1835年1月10日~1901年2月3日

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「もう一度目が覚めるかな。それとも、これっきり眠ってしまうのかな・・・」 (最後の言葉) 「我が人生は楽しかった」 (最後の言葉) 日本の武士、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者。諱は範。字は子囲。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である。

福沢諭吉さんの残した言葉【慶應義塾創設者】1835年1月10日~1901年2月3日

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「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。」 「政治は悪さ加減の選択である。」 「結婚は人生の重大事なれば、配偶の選択は最も慎重ならざるべからず。」 「妊娠中に母を苦しめ、生れて後は三年父母の懐を免れず、その洪恩は如何と言えり。」 「親子だというても、親は親、子は子だ。その子の為に節を屈して子に奉公しなければならぬということはない。」 「家の美風その箇条は様々なる中にも、最も大切なるは家族団欒、相互にかくすことなき一事なり。」 「一家は習慣の学校なり。父母は習慣の教師なり。」 「活用なき学問は、無学に等しい。」 「読書は学問の術であり、学問は事業の術である。」 「人生、万事、小児の戯れ。」 「難きを見て為さざるは、丈夫の志にあらず。」 「浮世を棄つるは、即ち、浮世を活発に渡るの根本なると知るべし。」 「自分の悪かったことに気が付いて改めるというのは立派なことだ。」 「自由と我儘(わがまま)との界は、他人の妨げをなすとなさざるとの間にあり。」 「私は軽蔑されて侮辱されても、その立腹を他に移して他人を辱めることはドウしてもできない。」 「顔色容貌の活溌愉快なるは人の徳義の一箇条にして、人間交際において最も大切なるものなり。」 「人は、生まれながらに、貴賤貧富の別なし。ただ、良く学ぶ者は、貴人となり、富人となり、そして、無学なる者は、貧人となり、下人となる。」 「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり。」 「ペンは剣よりも強し」 「人は他人に迷惑を掛けない範囲で自由である」 「自ら労して自ら食うは、人生独立の本源なり。」 「社会共存の道は、人々自ら権利をまもり幸福を求むると同時に、他人の権利幸福を尊重し、いやしくもこれを侵すことなく、もって自他の独立自尊を傷つけざるにあり。」 「学問の本趣意は、読書に非ず、精神の働きに在り。」 「未だ試みずして、先ず疑うものは、勇者ではない。」 「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し。」 「人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。」 「一度、学問に入らば、大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。」 「空想はすなわち実行の原案」 ...

市川團十郎(12代目)さんの残した言葉【歌舞伎役者】1946年8月6日~2013年2月3日

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「うぬぼれには足音がない」 日本の歌舞伎役者。屋号は成田屋、定紋は三升、替紋は杏葉牡丹。日本芸術院会員。本名は堀越 夏雄、俳名に柏莚がある。

三浦朱門さんの残した言葉【作家】1926年1月12日~2017年2月3日

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「結婚は恋愛時代にはない要素を、それも素晴らしい要素をつけ加えてくれるが、それに伴う犠牲も要求するのである。」 「老人は手遅れとならないうちに、孫の世代に人生を教えなければならないのである。」 「そのような違いを認めた上で分かち合える共感が本物なので、それは皆同じだから仲良くしよう、といった偽善は友愛ではない。」 「今時の学校の教師が生徒たちに心の教育などができる訳がない。彼ら自身、皆同じ、皆仲良く、と教えられて大人になったのだ。われわれ老人だけが、この世は不公平であることを知っている。一人一人は違うのだし、その歩む人生も違う。」 「ゲートボールクラブを作るくらいなら、老人紳士クラブを作るほうが気がきいている。」 「最低の物質生活と淡々たる心境で真善美を求めることができるのが老人とすれば、老人こそ、まさに十九世紀の英国の紳士の役割を、わが国において担える存在ということになりはしないだろうか。」 「紳士にとって必死になってやるべきことは、一切の打算からはなれて、純粋に倫理的な立場にたつ、ということになる。」 「『故郷は遠きにありて思うもの』という有名な詩があるけれど、親子だって遠きにありて思うものである。」 「生涯の大事業のようにして、家を買うようなことはしないほうがよい。」 「第二の人生に必須なのは、何よりも遊び心なのである。」 「仕事、労働と道楽、趣味との違いは、それを楽しんでやれる心のゆとりがあるか、否かの違いに帰する。」 「第二の人生を歩むなら、第一の人生のことは、忘れるのである。」 「定年がくると嘱託という名前はくれるが、収入は激減する。年金と合わせてどうやら夫婦で暮らしてゆける程度もあれば、有難いと思わねばならない。」 「OLが優しくしてくれるようになれば、男はそろそろ身の振り方を考えたほうがよいのかもしれないのである。」 「人間、五十を過ぎる時、背広を新潮しようとするなら、果たしてこれは本当に必要なのか、自らに問いただす必要がある。」 「自分の引き際を決める、ということは、それまでの時間、お茶を濁していればよい、という意味では絶対にない。それまでは全力投球をするのでる。野球でもリリーフはリリーフとしての使命がある。」 「老人は働く必然のある間は従来通り社会的活動を続けるべきではあるが、その際、常に身を引くべき時を考えねばな...

伊佐千尋さんの残した言葉【ノンフィクション作家】1929年6月27日~2018年2月3日

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「ゴルフ上手は、ことば上手。」 日本のノンフィクション作家。画家・八島太郎の息子で、マコ岩松は異母弟。 東京都生まれ。沖縄県立二中卒業。浦和高等学校 一年中退。1964年、アメリカ施政権下の沖縄に実業家として在住中、現地人青年四人による米兵殺傷事件の陪審員となり、陪審は致死罪について無罪の評決をした。

シド・ヴィシャスさんの残した遺書【ミュージシャン】1957年5月10日~1979年2月2日

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「俺達は死の取り決めがあったから、一緒に死ぬ約束をしてたんだ。 こっちも約束を守らなきゃいけない。今からいけば、まだ彼女に追いつけるかも知れない。 お願いだ。死んだらあいつの隣に埋めてくれ。 レザー・ジャケットとレザー・ジーンズとバイク・ブーツを死装束にして、さいなら。」 (遺書) イングランド出身のパンクロッカー。 同国のパンク・ロックバンド「セックス・ピストルズ」のメンバーとして知られる。バンド解散後、薬物乱用により若くして他界した。そのカリスマと過激なパフォーマンスに人々は魅了され、波乱に満ちた生涯がパンク・ムーブメントの伝説として語り継がれた。

シド・ヴィシャスさんの残した言葉【ミュージシャン】1957年5月10日~1979年2月2日

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「俺は本当はヴィシャス(悪)じゃないよ。心根が優しくて、ママを愛してる。」 「ステージ上ではパンクの格好をして、実際の自分とは違うパンクスのフリをしといて、家に帰れば襟のついたシャツとネクタイを締めるようなグループがいるけど、あんなのは信じられないな。」 「俺はマヌケなサウンドチェックなんかしない。俺にはそんなもの必要ない、俺はシド・ヴィシャスなんだ!」 「俺は自分のやりたいことをしたいんだ。世界中がそれを好きじゃなくても全然構わない。もし一枚も売れなくったって、それが何だっていうんだ?それが俺達のやりたいことなんだ。それをやっている時は楽しいし、後で聴いてみるのも楽しい。自分達のレコードは好きだからよく聴くよ。実際いいレコードだと思う。そうじゃなかったら参加してないと思う。ラモーンズを好きなのと同じくらい、自分たちのレコードが好きなんだ。」 「ただコード弾いてブーンって鳴って、そしたら音楽だ。」 「大人達には知性なんてものはまるで無い。子供であることをやめるってことは、物事に興味を失うということなんだ。年齢なんて関係ないんだ。たとえ99歳でも子供でいることは出来る。」 「俺はたくさん年を取る前に死んじまうと思う。何故だかわからないけど、そんな気がするんだ。」 イングランド出身のパンクロッカー。 同国のパンク・ロックバンド「セックス・ピストルズ」のメンバーとして知られる。バンド解散後、薬物乱用により若くして他界した。そのカリスマと過激なパフォーマンスに人々は魅了され、波乱に満ちた生涯がパンク・ムーブメントの伝説として語り継がれた。

フィリップ・シーモア・ホフマンさんの残した言葉【俳優】1967年7月23日~2014年2月2日

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「誰が何回結婚したかとか趣味は何かとか誰とつきあっているのか、なんてことを観客が知り尽くしていたら、その俳優が役になり切っていたとしても観客にリアルに感じてもらうことがとても困難になる。」 アメリカ合衆国の俳優。2005年公開の『カポーティ』でアカデミー主演男優賞を受賞した。

岡野俊一郎さんの残した言葉【サッカー指導者】1931年8月28日~2017年2月2日

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「チームの中で自分の役割を果たすには、チームの一員としてチームにプラスになる自分の長所を伸ばし、マイナスになる短所を消していく毎日の努力を怠ってはいけない。」 東京都出身のサッカー選手・サッカー指導者。第9代日本サッカー協会会長、企業経営者。学校法人日本体育大学顧問。 東京・上野の和菓子店「岡埜栄泉」代表取締役。

ルイス・アラゴネスさんの残した言葉【サッカー指導者】1938年7月28日~2014年2月1日

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「You don’t play finals, you win them.」 (ただ決勝戦に出場するんじゃない、決勝戦で勝つんだ) 「The ball is musical and you have to know how to play it properly.」 (ボールは楽器であり、正しく弾く方法を知らなければならない。) 「Winning and winning and winning, winning again, and winning and winning and winning… That’s football.」 (勝って、勝って、勝って。再び勝って、さらに勝って勝って…。それがサッカーだ。) スペインのマドリード出身の元サッカー選手、サッカー指導者。主にリーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードの選手・指導者として活躍した。

ウド・ラテックさんの残した言葉【サッカー指導者】1935年1月16日~2015年2月1日

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「もう21世紀を迎えた。今日のサッカー業界はもう自分には合わない」 「サッカーの事を全く知らない会長に振り回されるのはもう充分。多くのタイトルを獲得したし、監督業はもう引退する」 東プロイセンゼンスブルク出身のサッカー選手、サッカー指導者。複数のクラブで数々のタイトルを獲得し、「優勝請負人」の異名を持ったドイツサッカーの歴史に残る名監督の一人である。

レツゴー長作さんの残した最後の言葉【芸人】1943年9月29日~2018年2月1日

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「お母さんを大事にせえ」 (子供たちへ) (最後の言葉) 日本の漫才トリオ、レツゴー三匹のメンバー。岡山県都窪郡妹尾町(現:岡山市南区)出身。本名:永原 誠。

芥川也寸志さんの残した最後の言葉【作曲家】1925年7月12日~1989年1月31日

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「ブラームスの一番を聴かせてくれないか…あの曲の最後の音はどうなったかなあ」 (最後の言葉) 日本の作曲家、指揮者。JASRACメンバー。

ジャイアント馬場さんの残した言葉【プロレスラー】1938年1月23日~1999年1月31日

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「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけどこれほど強いものはない。つまり、自然の流れに逆らわずに正直に生きるってこと。」 日本のプロレスラー、プロ野球選手、タレント。 本名・旧リングネーム・野球選手時代の登録名は馬場 正平。血液型O型。全日本プロレス代表取締役社長・会長、NWA第一副会長を歴任した。 身長209cm、体重135kg。

ジョン・ウェットンさんの残した言葉【ミュージシャン】1949年6月12日~2017年1月31日

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「パンクはただのファッションだ」 「この10年間、喫煙していないし、最近は酒も飲まなくなった。この年までこの仕事をしていると判るんだが、ステージに立つのはかなりの肉体労働なんだ。」 「日本の人達は何があろうと、変わらず私のファンでいてくれる。この先もずっと、私は彼らに感謝し続けるだろう。」 「音楽は空想の産物でなくてはいけないんだ。あらゆるものが存在可能な世界で、それをどう使うかは使い手次第だ。」 「何かをするためには、強力な欲求が必要だ。欲求があれば、他のことは自ずと解決がつく。これまでの自分の人生では、大概そのとおりになったよ。意志あるところに道は開かれるってやつさ。」 イングランド出身のミュージシャン、ボーカリスト、ベーシスト、ソングライター。キング・クリムゾン、U.K.、エイジアでの活動が有名。

アゼリオ・ビチーニさんの残した言葉【サッカー指導者】1933年3月20日~2018年1月31日

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「相手から攻め込まれたとき、サッカーは11人で守るのが当然だ。守って、守って、苦しみながらも最後には勝つ。本当の、『生きた』サッカーとはそういうものだ。」 イタリア・チェゼーナ出身の元サッカー指導者、元サッカー選手。

いときん さんの残した最後の言葉【ミュージシャン】1979年3月3日~2018年1月31日

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「みんな、お父ちゃん、お母ちゃんにもろた体、大事にしろよ。公衆便所やないで。アルコール、添加物…体の中に毒、放り込んだらあかんで。自分の子供にタバコ吸わすやつ、おらんやろ。体の中に毒、放り込んだらあかん。病気になって体のことも、食べ物のことも、考え直した。な、病気になってから、治すんはたいへんやからな『みんな、生きろよ』『生きろっ!』」 (最後のメッセージ) 日本のJ-POPグループであるET-KINGのメンバー。MC兼トラックメイカーとして活動していた。血液型はA型。 ET-KINGではリーダーとして活動し、トラックメイクをほぼ一人で担当する上、プロデューサーや構成なども担当し、中心的な存在であった。その他にもグラフィティー、彫師、格闘家の経験もある。

マハトマ・ガンディーさんの残した最後の言葉【インド独立の父】1869年10月2日~1948年1月30日

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「ヘー・ラーム」 (おお、神よ) (最後の言葉) インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者である。 マハトマ・ガンディーとして知られるインド独立の父。「マハートマー」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされるガンディーの尊称である。

マハトマ・ガンディーさんの残した言葉【インド独立の父】1869年10月2日~1948年1月30日

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「I am prepared to die, but there is no cause for which I am prepared to kill.」 (私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない。) 「You must not lose faith in humanity. Humanity is an ocean; if a few drops of the ocean are dirty, the ocean does not become dirty.」 (人間性への信頼を失ってはならない。人間性とは大海のようなものである。ほんの少し汚れても、海全体が汚れることはない。) 「First they ignore you, then they laugh at you, then they fight you, then you win.」 (はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。そうして我々は勝つのだ。) 「Non-violence is the greatest force at the disposal of mankind. It is mightier than the mightiest weapon of destruction devised by the ingenuity of man.」 (非暴力は人間に与えられた最大の武器であり、人間が発明した最強の武器よりも強い力を持つ。) 「A coward is incapable of exhibiting love; it is the prerogative of the brave.」 (臆病な者は愛を表明することができない。愛を表明するとは勇敢さの現れである。) 「It is unwise to be too sure of one’s own wisdom. It is healthy to be reminded that the strongest might weaken and the wisest might err.」 (人間の英知を信用しすぎるのは賢明ではない。強者も弱くなるかもしれないし、賢者も間違うかもしれないと心に留めておくことは健康的である。) 「Man lives freely only ...

大峯顕さんの残した言葉【哲学者】1929年7月1日~2018年1月30日

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「道徳とは、自分の内部以外のいかなるものにも、絶対的なものを認めない立場。自分自身の内面から、呼んでいるところの声に従う立場。」 日本の哲学者、浄土真宗僧侶、俳人。大阪大学名誉教授、元龍谷大学教授。専立寺前住職。学者としての専攻は宗教哲学。中期フィヒテ研究・西田幾多郎研究で知られる。俳号は大峯あきら。

井上靖さんの残した最後の言葉【小説家】1907年5月6日~1991年1月29日

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「あれは『私の夜間旅行』とすればいいよ」 (ふみ夫人へ) (最後の言葉) 日本の小説家。文化功労者、文化勲章受章。

河野多恵子さんの残した言葉【小説家】1926年4月30日~2015年1月29日

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「全て自信作です」 「現実には、幸福と不幸とは一本の線で区切るように対象的な別個の状態を示しているわけではない。幸福感にしろ不幸感にしろ、当人の置かれている状態には変化はないのに感じ方が変化することはあり得るのである。」 日本の小説家。勲三等瑞宝章、文化勲章受章。

橋本治さんの残した言葉【小説家】1948年3月25日~2019年1月29日

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「『大きくなりたい』という『欲望』に支えられた経済の論理が技術革新に結び付き、世界は発展してきました。でも私たちはきっと、大きな時代の転換点に立っているんです。生き残るために大きくならないといけないというのは、バブル期以前の考え方です。大きくなくても、適正な大きさで小回りが利くほうがいいんだという自信を持つべきだ。」 「文章を書くことについては……どんなときにも、15歳の男が背伸びしてわかろうとしたときに理解できるものになっているように準備しておかなければいけない、とは思っているんです。ただ、そう思っているから、私はどんな本でも、『これはわからないかもしれないけれど』なんていう遠慮会釈はないんです。年齢や世代に対する遠慮会釈もありません。」 「作家というものは描写をするのが仕事でしょう。だから、前提になるような知識なんて持たないまま、これは何かヘンだと感じたら、そのヘンさを描写していくことからはじめればいいと思っているんです。だから、どんな本も延々と長くなって、しかも単純なキーワードはひとつも出てこないものになりますね。専門的な世界で符号のように通用しているものの考え方を『ヘンだ』と思ってしまったら、もういちいち脇道に逸れたところから考えていくしかないんです。」 「いまの若い人は情報を仕入れることに興味があるみたいだけど、私は情報というものを仕入れないんですよ。専門的な情報を集めてものを見るというのは『何かをわかるためのカギがある』と考えているから出てくる行動でしょう?でも、私はそういうカギを持たないままで、セーターの毛糸をほどいて玉をつくっていくみたいなことをしているんです。絡まったものごとをほどくことなら誰にでもできると思っているので、その絡まりをほどくことで『何が問題になっているのか』を形にすることから考えていきます。もともと、カギにあたるような重要な公式を覚えるのが嫌いですし、そういうふうにものを考えるのは、ほかの勉強ができる奴がやるだろうと思って放っておいたんです。」 「ある専門分野で特定の問題を解くためのカギというのは適用範囲も狭いでしょ。マルクス主義のカギとか構造主義のカギとか、カギの使える範囲は決まってしまっていますので。それで、私は広大な現実から立ち上がってくるようなところからしかものを考えないようにしているんです。そうやって目の前の現実か...

石ノ森章太郎さんの残した最後の言葉【漫画家】1938年1月25日~1998年1月28日

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「大丈夫だから」 (家族へ) (最後の言葉) 日本の漫画家、特撮作品原作者。本名は小野寺 章太郎。 1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり-」と呼ばれるのが通例だった。出生地の「石森」は「いしのもり」と読む。

石ノ森章太郎さんの残した言葉【漫画家】1938年1月25日~1998年1月28日

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「盲目的前進は、どこかで方向を間違えても気づきません。時折立ち止まって周囲を見回しましょう。そして反省の時を持ちましょう。」 「『劣等感が人をつくる』劣等感に押しつぶされまい、という頑張りが、その人に成長につながる。 同じくー『劣等感』の皆無な人間など、あるはずがないが、もしあったとしたら、味気ない人間に違いない」 「僕らがいくらヒットを生んだとしても、しょせん手塚治虫にはかなわないんだよ。あの人は雲の上の人なんだから。誰も彼もそれを認めていたじゃない。天才というのは、どこかいびつでしょう。僕らは凡庸だから、妙にバランスがとれてしまっている。そういう性格が作品にもあらわれてしまっている。物足りない。手塚さんのようなつきつめたところがない。それは自分でもわかってる。」 「壁を越えるのはちょっと苦しいけれど、越えればそこには必ず新しい世界がある。それを見られるだけでも楽しいじゃないか。人生は木のようなもので、まっすぐに伸びた幹だけの木よりも、枝があちこちに伸びている木のほうがおもしろい。まっすぐな幹だけをスルスルと昇っていくより、枝々をいろいろな方向に伸ばしたほうがいろいろな方向が見渡せて人生が何倍も楽しめるぞ。」 「人から見て幼稚だろうと何だろうと、自分が面白いと思うことをやれれば、人生はそれで十分なんだな、と。他人に褒められるように生きる必要なんて、まったくない。それが世の中に受け入れられるかどうかは、あくまで結果でしかない。」 日本の漫画家、特撮作品原作者。本名は小野寺 章太郎。 1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり-」と呼ばれるのが通例だった。出生地の「石森」は「いしのもり」と読む。

青山孝史さんの残した言葉【歌手】1951年8月10日~2009年1月28日

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「結婚とは、幸せという名の財宝を探す旅である。」 日本の歌手・俳優・タレントである。生まれは佐賀県佐賀市高木瀬町だが、育ったのは神奈川県横浜市と渋谷区幡ヶ谷。 1970年代を代表する男性アイドルグループ・フォーリーブスのメンバー。 愛称は「ター坊」。

中山康樹さんの残した言葉【音楽評論家】1952年5月8日~2015年1月28日

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「マイルスを聴け!」 日本の音楽評論家。

永井一郎さんの残した言葉【声優】1931年5月10日~2014年1月27日

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「声優は子どものエネルギーに負けたら捨てられる。まだまだ子どもの心をつかんでいる自信はあります。死ぬまで波平を続けますよ。」 日本の俳優、声優、ナレーターである。 大阪府池田市出身。血液型はA型。身長159cm、靴のサイズ23.5cm。所属事務所は劇団三期会・東京俳優生活協同組合・同人舎プロダクション・東京アーチストプロを経て、最後は青二プロダクションに所属していた。

坂東眞砂子さんの残した言葉【小説家】1958年3月30日~2014年1月27日

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「人生とは選択の連続です。一つのものを選ぶということは、一つのものを捨てるということ。すべてが手に入ることなどありません。」 「こんな時代だからこそ目先の不満で仕事を辞めるべきではありません。」 「若いうちから人とのつながりを大切にしておくと、40代くらいになって効いてきます。人間関係も、短期的な結果を求めず長期的な視点をもって育てて欲しいと思います。」 「女性活躍への期待が高まっていますが「男性と同じように働けます」という働き方は女性にお勧めできません。自分だから、女性だからできることを考え抜く。闘争ではなく、協力する。奪い取るのではなく育て上げる。新しいリーダーシップの形を私自身、これからも追求していくつもりです。」 「女性の品格とは、内面から滲み出るもの。そして、外面の魅力は、精神の美しさが作り上げます。古典の名言を知り、教養を身につけることは、メイクにまさる美容法なのです。」 「日本の場合、会社が人を育てる役割を担っています。女性はキャリアの途中で出産・子育てで辞めてしまうことが多いため、会社はせっかく女性を育てても元が取れない、無駄な投資であると考え、無理して女性を鍛えることなく、チャンスも与えません。そもそも日本企業の人事部は女性に多くを『期待』していません。『機会』も少なく、『鍛えよう』ともしないのです。この三つの『き』が、中長期で女性が活用されない理由だと思います。」 日本の小説家。ジャンクロード・ミッシェルとの共同執筆による筆名に梟森 南溟がある。