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服部半蔵さんの残した言葉【家康を支えた諜報参謀】1542年~1596年11月4日

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「我が身、既に鉄なり 我が心、既に空なり 天魔覆滅」 戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。通称は半蔵で、服部半蔵の名でよく知られている。 松平氏の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、家康より預けられた伊賀衆と甲賀衆を指揮していた。 父の保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。 一般的に「伊賀忍者の頭領」のイメージが強い正成であるが、彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、伊賀国の忍者の頭領ではない。 徳川配下の将として名を現した後の働きも忍者のそれとは異なり、槍や体術を駆使し一番乗り・一番槍などを重要視した武功第一のものが多い。しかし、いくつかの合戦において伊賀者や甲賀者と行動を共にするほか指揮官として忍びを放ち探査や工作をさせた記録も残るため、正成の生涯の多くに伊賀・甲賀出身者や忍びの者達が関わっていたであろう事が推察される。

葉室麟さんの残した言葉【小説家】1951年1月25日~2017年12月23日

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「ひとは心の目指すところに向かって生きているのだ、と思うようになった。心の向かうところが志であり、それが果たされるのであれば、命を絶たれることも恐ろしくはない。」 「おのれがおのれであることにためらうな。悪人と呼ばれたら、悪人であることを楽しめ。それが、お前の役目なのだ。」 日本の小説家。福岡県北九州市小倉生まれ。本名・本畑雄士。 福岡県立明善高等学校卒業。西南学院大学文学部外国語学科フランス語専攻卒業。地方紙記者、ラジオニュースデスク等を経て、2005年に江戸時代元禄期の絵師尾形光琳と陶工尾形乾山の兄弟を描いた『乾山晩愁』で第29回歴史文学賞を受賞。 50歳から創作活動に入り、4年後に文壇デビューを果たした。2007年、『銀漢の賦』で第14回松本清張賞を受賞する。2012年、『蜩ノ記』で第146回直木三十五賞を受賞する[。久留米市を拠点に、敗者や弱者の視点を大切にした歴史時代小説を生み出した。

大田堯さんの残した言葉【日本子どもを守る会名誉会長】1918年3月22日~2018年12月23日

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「希望がなけりゃ、生きてても楽しくない。」 「日本の近代は表面が立憲制で中身は絶対主義。国民には『お上』の意向に従順な価値観が染みついており、それが政権を勢いづかせる。」 「人づくりと言えば格好いいけれど、特定の理想を掲げ同調を求める教育は、国のために犠牲になる人間を生んだ戦時中の人民教化と変わらない。子供はみんな違っていて、伸びる力も持っている。教師は介添え役でいい。」 「上官に服従し、上意下達に終始する自分は何者なのか。何のために生きているのか。何もわからなくなった。」 日本の教育学者。東京大学名誉教授、都留文科大学名誉教授。日本子どもを守る会名誉会長。シューレ大学アドバイザー。専攻は教育学、教育史、教育哲学。 戦後の日本を代表する教育学者として著名である。2011年に大田を主人公としたドキュメンタリー映画「かすかな光へ」が公開され、再びその活動が注目されている。 最近は講演・執筆など多忙だが、その中で故郷の広島県本郷町の「ほんごう子ども図書館」の設立に尽力。長年の研究者としての実績とあわせて、同町から名誉町民の表彰を受けている。「九条の会」傘下の「九条の会・さいたま」呼びかけ人を務めている。2013年末から、自身の初の著作集となる、『大田堯自撰集成』が藤原書店から刊行されている。

乙羽信子さんの残した言葉【おしん】1924年10月1日~1994年12月22日

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「いつも闘いです。自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか」 日本の女優。愛称は「オカジ」。 宝塚退団後、大映に入社する。大映は、宝塚時代から人気のあったえくぼに「百萬弗のゑくぼ」というキャッチフレーズをつけて、純情型のスターとして売り出す。デビュー作は同年の新藤兼人脚本、木村恵吾監督の『處女峰』で、上原謙と共演した。その後、何作かに出演した後、1951年(昭和26年)の新藤兼人の第1回監督作品『愛妻物語』で、夫を陰で支える妻を演じ、映画界でもスターの地位を手に入れる。

川谷拓三さんの残した言葉【個性派俳優】1941年7月21日~1995年12月22日

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「ダイエットを継続できるような 強い心の持ち主は そもそもぶくぶく太らない」 日本の俳優である。本名:仁科 拓三。愛称は拓ボン。左利き。高知県安芸市出身。 大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、仁科熊彦は義父、岡島艶子は義母にあたる。大叔父に伊沢一郎がいる。 テレビ出演により、お茶の間で認知された当時は漫画の世界にも川谷をイメージモデルとしたキャラクターが数多く登場した。小山ゆう原作のボクシング漫画『がんばれ元気』では主人公・元気の通うボクシングジムの先輩・山谷勝三。林律雄・大島やすいち作による当時人気を博した刑事漫画『おやこ刑事』では『フィルムの証言』の挿話で登場する容疑者となる俳優・山谷拓二。小池一夫・神江里見作による異性に関心を持つ思春期の多感な中学生の日常を描いた『青春チンポジュウム』に登場する主人公三人組の中学生の一人・鈴木重信(ジューシン)など。

ジャック・マイヨールさんの残した言葉【グラン・ブルー】1927年4月1日~2001年12月22日

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「情熱を失くすぐらいだったら、情熱に溺れたほうがいい。」 「短く、一度しかない人生を人類のために、いかに有意義に生きるか、いかに悔いなく生きるかだ。」 フランスのフリーダイバー。上海生まれ。イタリアのエルバ島にて没。 水族館を退職しカイコス諸島に移住、素潜りによる伊勢エビ漁を島民に教える。その頃になると周りの勧めでフリーダイビングに挑戦するようになり、1966年にハバナにて60メートルを記録したのを皮切りにエンゾ・マイオルカと共に記録合戦を繰り広げた。1973年、イタリアに居を移し、10余りの潜水実験に参加。それにより数十メートルの深度でフリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加していることが、スキューバで潜った医師によって測定されたこともある。1976年11月23日、エルバ島にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。この時49歳であった。

伊丹十三さんの残した言葉【映画監督】1933年5月15日~1997年12月20日

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「既成概念に一撃加えることで新しいものが見えてくる」 日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。戸籍名は池内 義弘だが、家庭では岳彦と呼ばれて育ったため、本名・池内岳彦とされる場合もある。映画監督の伊丹万作は父。女優の宮本信子は妻。長男は池内万作。次男は池内万平。 1984年、51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた蓮實重彦の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、事実、主に30年代 - 40年代に至るハリウッド映画のシーン、ショットの引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無下に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか二作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。また、この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」というブランドを築くことに成功する。

青島幸男さんの残した最後の言葉【作家】1932年7月17日~2006年12月20日

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「ビールでも飲みたいね」 (家族へ) (最後の言葉) 日本の作家、作詞家、タレント、俳優、放送作家、映画監督、政治家。 参議院議員、第二院クラブ代表、東京都知事などを歴任した。 テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った「スーダラ節」を作詞する。クレージーキャッツ主演の映画はもとより、『若大将シリーズ』などでも映画の主題歌を作詞した。主演したドラマ『いじわるばあさん』では国民的キャラクターとして定着し、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞するなど、多才の人として知られ、「超マルチタレント」と呼ばれた。タレント政治家としても高い人気を誇り、参院選2期目以降は、選挙期間中に選挙公報作成と政見放送録画以外の選挙運動を一切せずに当選し続けたことなどが注目された。

青島幸男さんの残した言葉【作家】1932年7月17日~2006年12月20日

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「面白がってやっているヤツと、苦労してやっているヤツと、どっちが勝つかな。やっぱりさ、面白がってやっているヤツにはかなわないんだよ。」 「なんとかなっちゃうもんなんだって、人生なんてものはさ。」 日本の作家、作詞家、タレント、俳優、放送作家、映画監督、政治家。 参議院議員、第二院クラブ代表、東京都知事などを歴任した。 テレビ業界で当初は放送作家として成功し、高度成長期を歌った「スーダラ節」を作詞する。クレージーキャッツ主演の映画はもとより、『若大将シリーズ』などでも映画の主題歌を作詞した。主演したドラマ『いじわるばあさん』では国民的キャラクターとして定着し、小説を執筆すれば処女作『人間万事塞翁が丙午』が直木賞を受賞するなど、多才の人として知られ、「超マルチタレント」と呼ばれた。タレント政治家としても高い人気を誇り、参院選2期目以降は、選挙期間中に選挙公報作成と政見放送録画以外の選挙運動を一切せずに当選し続けたことなどが注目された。

森田芳光さんの残した言葉【家族ゲーム・失楽園】1950年1月25日~2011年12月20日

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「僕がずっと大切に考えてきたのは、人生の中に『山と谷』をつくるということです。たとえば画家のピカソも、僕が大好きなジャズのトランペット奏者のマイルス・デイヴィスもそう。彼らは年代ごとに新しいテーマを追って成功と失敗を繰り返し、それらが山と谷のようになって彼らの人生を起伏のある味わい深いものにしている。僕自身も、映画をつくるたびに新しいコンセプトの挑戦し、自分の人生の山脈を築いてきたつもりです。」 「ずっと山のてっぺんばかりを歩くような人生は、ドラマとして面白くありません。谷があってこそ山がある。味のある人生にするためには、谷底を経験することも必要だと思うのです。」 「何より大事なことは、ひたむきな向上心を持っているかどうか。そういう人は進化する可能性がある。」 日本の映画監督、脚本家である。 1981年に『の・ようなもの』で、長編映画監督デビューした。以降、シリアスなドラマから喜劇、ブラックコメディー、アイドル映画、恋愛映画、ホラー映画、ミステリ映画と幅広いテーマを意欲的に取り扱い、話題作を数多く発表した。 音楽の大島ミチルとは、『失楽園』『模倣犯』『阿修羅のごとく』『間宮兄弟』など多数の作品で組んでいる。森田によると、大島とのやり取りは毎回「人に見せられないようなシビアな戦い」であるという。 漫画『松田優作物語』によると、『家族ゲーム』以来の森田&松田の次回作の企画段階で、映画の題材のアイデアがなかなか出ず、苛立った松田が森田に言いがかりをつけた際、森田は「お前なんかピストルで撃ち殺してやる!」と絶叫し、その言葉があまりにもナンセンスだったことで松田は吹き出してしまい、イザコザが収まったという。

岩崎俊一さんの残した言葉【コピーライター】1947年7月7日~2014年12月20日

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「年賀状は、贈り物だと思う。」 「服は、肌より先に抱きしめられる。」 「ロケットも、文房具から生まれた。」 「人生は、冬ではなく、春で終わりたい。」 「雨の日の記憶は濃い。」 「少女は無口になった。夏の終わりだった。」 「コピーは、作るものではなく、見つけるもの。」 日本のコピーライター。 企業および商品の新聞広告・CF広告のためのキャッチコピー(タグライン)、ボディコピーを多く手がけた。受賞歴は、TCC賞、ACC賞、ギャラクシー大賞、読売広告大賞、朝日広告賞、毎日広告デザイン賞、日経広告賞、カンヌ国際広告賞など多数。 すべてのコピーを生み出す際、「コピーは、作るものではなく、見つけるもの。」という考え方で臨んだという。

ミシェル・モルガンさんの残した言葉【フランスの大女優】1920年2月29日~2016年12月20日

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「いつまでも新鮮な愛は、すこし冷たさも混じっている愛だけです。」 フランスの女優。イル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。日本語では他にミッシェル・モルガン、ミシェール・モルガンとも表記されている。主に1930年代後半から1960年代後半まで活躍した。 パリ西部近郊ヌイイ=シュル=セーヌ生まれ。15歳で女優になる決心をし、映画のエキストラをしながら、演劇学校で演技を学び、当時の著名なフランスの俳優レーミュ主演の映画“Gribouille”でメジャー・デビューをする。 そして、ジャン・ギャバンと共に2つの映画『霧の波止場』と『曳き舟』に主演し、スターの座に上った。 第二次世界大戦中には渡米し、アメリカ人俳優ウィリアム・マーシャルと結婚、一男を産むが、離婚する。 1946年の映画『田園交響楽』では第1回カンヌ国際映画祭 女優賞を受賞した。 他の主な出演作は、イタリア映画『ファビオラ』(、ジェラール・フィリップと共演した2作『狂熱の孤独』と『夜の騎士道』、『マリー・アントワネット』等がある。 1970年代以降はほとんど映画出演はなく、時折テレビと劇場に出演しつつ、趣味の絵画と詩作に耽って平穏な生活を送った。 1969年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章を、1992年にはセザール賞の名誉賞を、1996年にはヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を授与された。

山本健一さんの残した言葉【ロータリーの父】1922年9月16日~2017年12月20日

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「部下がついてくるかどうかは、リーダーが苦しんだ量に比例する」 元旧海軍出身の技術者将校で、戦後東洋工業に入社し、開発リーダーとして世界で初めてロータリーエンジンの実用化に成功した自動車技術者。のち同社代表取締役社長、最高顧問などを務めた。 ロータリーエンジン開発までに、ダイハツ・ミゼットのヒットに触発され、対抗車の開発を社長が反対する中、秘密工場を作り試作。結果、K360の発売に結びついた。 1962年12月に、第二次技術研修団の一員としてNSUに訪問。当時の社長の松田恒次の意向で、1963年3月にロータリーエンジンの開発に専念するように指示。翌4月にロータリーエンジン開発部の部長に就任する。ロータリー開発部隊として47人が集結し、赤穂浪士にあやかり「ロータリー47士」と名乗った。ロータリーエンジン開発の背景には、当時審議されていた通商産業省の自動車業界再編計画で、東洋工業が他社に飲み込まれるかもしれない危機感があった。また、山本が「技術研究所」などロータリーエンジンが付かない名称を望んだが社長の松田恒次は「名称が大事」と突っぱねた。ロータリーエンジンの開発には心血を注ぎ、胃に穴があき、歯が抜け落ちる程、体調に変化があったものの、決して開発を諦める事をしなかった。 1967年5月、バンケル式ロータリーエンジンを実用化し搭載車コスモスポーツを発売。ロータリーエンジンの開発成功に対し、欧米の自動車会社は「広島の奇跡」と呼び、賞賛した。 1970年代後半、オイルショックによるロータリーエンジン車販売不振解消のため、燃費40%改善を目標にした「フェニックス計画」にも携わった。

中沢啓治さんの残した最後の言葉【はだしのゲン】1939年3月14日~2012年12月19日

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「好きなマンガを描いて、食べていけたんだから、こんな幸せなことはない。『ゲン』は俺が死んでも残る。『ゲン』が世代を超えて歩んでいってくれれば、それだけでいい」 (最後の言葉) 日本の漫画家。 代表作に『はだしのゲン』など、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験を元に、戦争・平和を題材とした作品を数多く発表している。 熱狂的な広島東洋カープファンであり、代表作である『はだしのゲン』にもカープが登場するほか、カープをテーマにした『広島カープ誕生物語』などの作品がある。『はだしのゲン』や『広島カープ誕生物語』には球団草創期における熱狂的なカープファンの常軌を逸した様子も描かれている。中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行っており、カープ見たさに甲子園球場に出向くほどだった。そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻・ミサヨも、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。 2011年8月にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対巨人戦では始球式を務めている。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうときに野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている。 被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年まで広島市主催の平和記念式典に出たことはなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」と述べている。 広島平和記念式典については、やらないよりはやった方がいいとは思ったが、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と中沢自身は参加したことはなかった。しかし広島市から招待され、2011年に「今生の別れのつもりで」と初めて出席した。中沢は戦争を引き起こした戦犯の人形を並べて市民が石をぶつける式典なら喜んで参加したいと述べている。

中沢啓治さんの残した言葉【はだしのゲン】1939年3月14日~2012年12月19日

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「伝えるということは本当に難しい。日本は唯一の被爆国だと毎年騒いでいたって、実際には伝わっていないのです。僕に送られてくる読者からの手紙は、『漫画に描かれている原爆の状態は本当だったのですか』『まったく知りませんでした』『戦争と原爆の本当の姿をもっと教えてください』というものが多い。これは40年前の読者も、いまの読者も同じです。」 「難しい言葉や文章でいわれたら、読む気がしなくなります。子供たちは漫画だからと夢中になる。夢中で読みだしたら、どんどん本質に迫っていくのです。」 日本の漫画家。 代表作に『はだしのゲン』など、広島市への原子爆弾投下による自身の被爆体験を元に、戦争・平和を題材とした作品を数多く発表している。 熱狂的な広島東洋カープファンであり、代表作である『はだしのゲン』にもカープが登場するほか、カープをテーマにした『広島カープ誕生物語』などの作品がある。『はだしのゲン』や『広島カープ誕生物語』には球団草創期における熱狂的なカープファンの常軌を逸した様子も描かれている。中沢は球場観戦も好きで、よく妻をカープ観戦に連れて行っており、カープ見たさに甲子園球場に出向くほどだった。そんな中沢の影響で結婚するまでカープに興味がなかった妻・ミサヨも、一緒にラジオを聴いたり観戦するうちにファンになっていった。 2011年8月にマツダスタジアムで「ピースナイター」として開催されたカープ対巨人戦では始球式を務めている。中沢は「カープのグラウンドで始球式できるとは夢にも思わなかった。こういうときに野球をやると不謹慎と言われるけど、平和だからできることを喜ばないと」と語っている。 被爆者でありながら悲惨な被爆体験のため2010年まで広島市主催の平和記念式典に出たことはなかった。「原爆に触れるのが嫌だった。(慰霊の日)8時15分が迫ると気分が重い。逃げ回った姿が蘇る」と述べている。 広島平和記念式典については、やらないよりはやった方がいいとは思ったが、被爆体験への忌まわしさと戦争責任を追及しない内容に「あんな白々しい式典で、あの原爆地獄の苦しみと怒りと、悲しみが、鎮められるかっ」と中沢自身は参加したことはなかった。しかし広島市から招待され、2011年に「今生の別れのつもりで」と初めて出席した。中沢は戦争を引き起こした戦犯の人形を並べて市民が石をぶつける式典なら...

香月日輪さんの残した言葉【小説家】1963年~2014年12月19日

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「いくら傷つこうとも、どれほど絶望に打ちひしがれようとも、それはもんだいじゃねぇ。そこから立ち上がることこそに意味があるんじゃ。そこから立ち上がった者は、それだけ強く、美しくなれるのよ」 「笑っていいんだと、思った。自分の考えや常識で、自分を縛る必要はないんじゃないかと思った。」 「『それ』だけはちがう。だって、『それ』は『待っているもの』なのだ、『きみ』を。 きみはにげられないよ。だって、きっと、いつか、出会ってしまうだろう。」 「『苦しみも哀しみも、物事のたった一面にしか過ぎない。ましてや君はまだ若いんだ。現実はつらいばかりじゃない。君さえその気になれば、可能性なんて無限にあるんだ。考え方ひとつで世界は変わるよ。君の常識があっという間に崩れたようにね』 『君の人生は長く、世界は果てしなく広い。肩の力を抜いていこう。』」 和歌山県田辺市生まれの女性小説家である。本名・杉野史乃ぶ。 1995年、『地獄堂霊界通信 ワルガキ、幽霊にびびる!』で第27回日本児童文学者協会新人賞を受賞。 2004年、『妖怪アパートの幽雅な日常』で産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞。

渡辺英彦さんの残した言葉【B-1グランプリ仕掛人】1959年2月3日~2018年12月19日

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「すべては『ネーミング』です。市のイベントで知り合ったNHKの記者に『富士宮やきそば学会という組織があり、そのG麺が市内のやきそば店を夜な夜な調査して回っているんです』という情報を流した。単に『やきそばを使った町おこし』では面白くない。庶民的な『やきそば』にアカデミックな『学会』を足せば、うさんくさくて『何、それ?』と興味を持ってもらえるかなと。活動についてもはじめに言葉ありき。中身は後からともなうと考えました。結果、NHKのニュースで取り上げられました。」 「手書きの文字は、絵画や書と同じです。自分の考えを自分の手、自分の技術、自分のセンスで形作る。私の場合、この作業をしている時に『ひらめき』が生まれる確率が高い。」 「ひらめいたことはすぐに文字にし手帳に書き留めます。メモが増えて混在し、どれがどれだか分からなくなるのを避けるために、書き留めた言葉を改めてネーミングやフレーズにまとめて、50音順にファイリングする。手帳でブレーンストーミングしている感じですね。」 「仕事柄、国内の移動が多く、電車やホテルなど様々な場所で記入するので、手帳1冊にたくさんの機能を持たせた方が便利なんです。これさえあれば大丈夫という安心感もあります。」 「いまは、美味しいというだけで売れる時代ではありません。まちおこしの相談で各地に行くと、『来てみて食べればわかるはず』ってみんな言うけれど、それじゃ駄目なんですよ。だって、『行ってみて食べなきゃわからない』わけですから。まず、『行って食べてみよう』と思ってもらうような話題を提供することが必要なんです。初めにうまいものありきではありません。うまい話ありきです。」 「まちおこしには補助金がつくことも多いですが、もらえるお金をあてにすると、その範囲でしか活動を考えなくなります。それに補助金なんて、いつかは減らされたり、なくなったりするものです。そのときにまちおこしの活動自体がなくなってしまっては、意味がありません。」 「コンセプトとパフォーマンスは分けて考えないといけません。両方とも真面目にやろうとするから失敗するのです。」 「もちろん、カップ麺なんて偽物だという批判もあります。でも、私はやきそばを売っているんじゃなくて、地元の名前を売っているんだから、それでいいと思っています。地元の味を守ろうとか、地元の食材にこだわるという視点...

前田慶次さんの残した言葉【戦国一のかぶき者】1543年(諸説あり)~1605年12月18日

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「生きるまで生きたらば、死ぬるでもあろうかと思う」 「寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る」 「七年の病なければ三年の藻草も用いず雲無心にしてくぎを出るもまたをかし、詩歌に心無ければ月下も苦にならず寝たき時は昼も寝起きたき時は夜も起きる。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ八幡地獄におつべき罪もなし。生きるだけ生きたらば死ぬでもあらうかと思ふ」 戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。小説や漫画の影響で、現在では前田慶次/慶次郎の通称で知られるが、宗兵衛、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、道号でも、穀蔵院飄戸斎や穀蔵院忽之斎、または龍砕軒不便斎と時期によって名乗りが異なる。 滝川一族の出身で、前田利家の義理の甥。

米長邦雄さんの残した言葉【さわやか流】1943年6月10日~2012年12月18日

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「最終的に頼れるのは、自分自身の力だけ」 「前に進もうとしなければ、後退してしまうものなんです」 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」 「一番いい薬というのは、『お前は天才だ、才能がある』という、この一言なんです」 「男の約束は法律に優先する」 「「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!(中略)オマ◯コを見るような目で、将棋盤を見ろ!!」」 将棋棋士。タイトル獲得数19期は歴代6位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。佐瀬勇次名誉九段門下。棋士番号は85。趣味は囲碁で囲碁八段。2003年12月、引退。日本将棋連盟会長。 2003年11月、紫綬褒章受章。2013年1月、旭日小綬章受章。 北陸先端科学技術大学院大学特任教授。 2004 - 2005年に、ニッポン放送の携帯サイトで「米長邦雄のさわやかイロザンゲ」というタイトルのエッセイを週1回で連載した。内容は、モテる秘訣、自身の過去についての赤裸々な告白、読者からの人生相談などであった。 自他共に認める性豪として知られるだけに、前立腺癌を宣告された後、全摘手術を躊躇したことが結果として転移に繋がった。その心の機微が闘病記である著書「癌ノート~米長流 前立腺癌への最善手~」に記されている。 一番弟子の伊藤能が三段リーグで不振に陥っていた頃に発した言葉が、「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!(中略)オマ◯コを見るような目で、将棋盤を見ろ!!」である。これが伊藤の闘志に火をつけ、三段リーグを2位で卒業し、四段昇段を果たした。

ヴィルナ・リージさんの残した言葉【女優】1936年11月8日~2014年12月18日

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「思えば恋っておかしなもの。自分がするまでは誰もがせせら笑うんだもの。」 「あんなに自慢さえしなければ、男性はもっとらくらく女性を征服できるのに。」 イタリアの女優。他にビルナ・リージの表記もある。 1953年から映画に出演し始める。イタリア映画やフランス映画で活躍していたが、ハリウッドにも進出し、ジャック・レモン共演の『女房の殺し方教えます』やフランク・シナトラ共演の『クィーン・メリー号襲撃』やジョージ・C・スコット共演の『おれの女に手を出すな』などの映画に出演。現在でもイタリアのテレビ等で活躍している。 1966年4月に開催された第38回米国アカデミー賞授賞式で、ジェームズ・コバーンと一緒にプレゼンターを務めた。 『王妃マルゴ』で第47回カンヌ国際映画祭の女優賞を受賞。

ザ・ザ・ガボールさんの残した言葉【ハリウッドの名花】1917年2月6日~2016年12月18日

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「ダイヤモンドは女のベストフレンドで、犬が男のベストフレンド。どっちが理にかなっているか分かるでしょ」 「女は愛を求めて結婚するのよ。で、愛をみつけるために結婚を続けるの」 「男には親切で理解があって欲しいわ。百万長者にそれを望むのはムリかな」 「男と離婚するまでは、その男をよく知っているとはいえないわ」 「私、セックスのことはよく知らないの。ずっと結婚していたから」 「私は誰でもダーリンって呼ぶの。名前を覚えきれないから」 「男が後ろへ下がったら、それは引き下がったってこと。でも女が下がるのは助走のためなのよ」 「私はダイヤモンドを男に返すほどにその男を嫌いになったことはないわ。」 「夫を愛せないというだけで離婚するのは、愛しているというだけで結婚するのと同じくらい愚かなことである。」 「私は素晴らしい家政婦よ。だって男と別れるたびに、彼の家を自分の物にするんだから。」 「男性は常に私が好きで、そして、私は常に男性が好きだった。しかし、私は男っぽい男性、女性と話す方法と扱い方を知っている人が好きだ-筋肉を持った男性だけでなくて」 ハンガリー出身のアメリカ合衆国の女優、ソーシャライト。「ザ・ザ・ガボール」は日本における慣用転写で、原語の英語の発音はジャ・ジャ・ガボーアに近い。Zsa Zsa Gaborは渡米後に改名した英語名で、ハンガリー語の本名はガーボル・シャーリ 。 ガボールはウィーンの舞台でその経歴を始め、1936年にミス・ハンガリーに選ばれた。1941年にハンガリーからアメリカに移住。「ヨーロッパの風格と様式」を持つ女優として人気になった。彼女は「魅力と優美さを発散する」という個性を持っているとみなされた。彼女の最初の出演映画は「Lovely to Look At」だった。その後、「結婚協奏曲」、ジョン・ヒューストン監督映画「赤い風車」など数々の映画に出演。ヒューストンは後に彼女を「称賛に値する」女優と表現した。 彼女は演技の経歴の外で、贅沢なハリウッドでの生活様式、華やかな人格、そして多くの結婚歴で知られた。ガボールは計9回結婚しており、その中にはヒルトンホテル創設者のコンラッド・ヒルトンや俳優ジョージ・サンダースが含まれる。彼女はかつてこう語った。「男性は常に私が好きで、そして、私は常に男性が好きだった。しかし、私は男っぽい...

相田みつを さんの残した言葉【にんげんだもの】1924年5月20日~1991年12月17日

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「雨の日には雨の中を 風の日には風の中を」 「名もない草も実をつける いのちいっぱいの花を咲かせて」 「だれにだってあるんだよ ひとにはいえないくるしみが だれにだってあるんだよ ひとにはいえないかなしみが ただだまっているだけなんだよ いえば ぐちになるから」 「あなたがそこにただいるだけで、その場の空気が明るくなる。あなたがそこにただいるだけで、みんなの心がやすらぐ。そんなあなたに私もなりたい。」 「柔道の基本は受身 受身とは投げ飛ばされる練習 人の前で叩きつけられる練習 人の前でころぶ練習 人の前で負ける練習です。」 「背のびする自分 卑下する自分 どっちもいやだけど どっちも自分」 「あのときの あの苦しみも あのときの あの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための」 「澄んだ眼の底にある 深い憂いのわかる人間になろう 重い悲しみの見える眼を持とう」 「セトモノとセトモノとぶつかりっこすると すぐこわれちゃう どっちかがやわらかければだいじょうぶ やわらかいこころを持ちましょう」 「他人のものさし 自分のものさし それぞれ寸法がちがうんだな」 「その根っこは見えない その見えないところに大事な点がある」 「七転八倒 つまづいたり ころんだりするほうが 自然なんだな 人間だもの」 「負ける人のおかげで 勝てるんだよな」 「あたらしい門出をする者には 新しい道がひらける」 「おまえさんな いま一体何が一番欲しい あれもこれもじゃだめだよ いのちがけでほしいものを ただ一ツに的をしぼって言ってみな」 「感動いっぱい、感激いっぱいのいのちを生きたい」 「一生勉強 一生青春」 「受身が身につけば達人 まけることの尊さがわかるから」 「そのうち そのうち べんかいしながら日がくれる」 「毎日毎日の足跡が おのずから人生の答えを出す きれいな足跡には きれいな水がたまる」 「やり直しのきかない人生 待った無しの命」 「私の、このヘタな文字、つたない文章も、見てくれる人のおかげで書かせていただけるんです。『おかげさんで』でないものは、この世に一つもありません。みんな『おかげさんで』で成り立っているんです。」 「待って...

岸田今日子さんの残した言葉【個性派女優】1930年4月29日~2006年12月17日

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「演じるとは裸になること」 日本の女優、声優、童話作家。血液型はA型。身長156cm。 自由学園高校卒業。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士、母は翻訳家の岸田秋子。姉に詩人で童話作家の岸田衿子、従弟に俳優の岸田森がいる。俳優の仲谷昇は元夫。 吉行和子、冨士眞奈美と親友であった。 1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。「劇団雲」を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加し、『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実書き下ろしの大半の作品に出演。その後もテレビ・映画出演と並行して舞台女優としても第一線で活躍していた。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高かった。その存在感から怪優と賞されることもあった。

飯島愛さんの残した言葉【タレント】1972年10月31日~2008年12月17日

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「悩み事はお金になるんだ。でも、お金がないと人を助けられないんだ。」 「誰かの悩みに救われるコトもある。あ、私も!!!って… 独りで抱えるのはキツいね、カッコつけて生きていたら肩が凝るし。傷つくの恐くて、電化製品でさえ触る前に取り説を読むことを覚ちゃってる。」 「男は SEXをするまで女を褒めるし優しい。やる為だ。女はSEXをしてから男に素直に成れる。裸に成ったからだ。そんな気がする。上辺の優しい言葉は人を酔わせる。でも本当の優しさは人の涙を誘う。」 日本の元AV女優、タレントである。本名:大久保 松恵。株式会社Thesis元代表取締役。東京都江東区出身。瀧野川女子学園高等学校中退。元ワタナベエンターテインメント所属。 タレント転身以降のテレビ番組への出演の際は、露出の多い服装でボディラインや脚線美を魅せる「お色気担当」として活躍すると同時に、クイズ番組等では珍解答を連発する、いわゆる「おバカタレント」としても活躍した反面、芸能、政治、スポーツなどの各分野で本音や自身の主張を展開した。

安藤昇さんの残した言葉【俳優】1926年5月24日~2015年12月16日

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「『男の品位』とは、言行の一致にして一念に殉じることを言う。つまり、『やる』と約束したことは命を取られてもやり抜く。『やらない』と言い切ったら、万金を積まれても微動だにしない。そして、事に臨んで弱音を吐かず、失敗したら無念の一語を呑みこんで潔く責任を取る。 これが『男の品位』だ。…… 価値観の多様化などともっともらしいことを世間では言うが、そうではない。『男の品位』は時代を超えて不変なのだ。」 「果報は寝たふりをして待て」 「ヤクザは辞めたが 男を辞めた覚えはない」 「相手に敵意がないことを示すのが礼儀。」 日本の元ヤクザ、俳優、小説家、歌手、プロデューサー。東京府豊多摩郡東大久保天神下出身。 愚連隊となった当初は新宿で勢力を拡大しようとしていたが、敗戦直後の新宿は古豪と新興勢力がひしめきあう激戦区であったため、やがて渋谷へ転進。当時の渋谷は、渋谷駅を世田谷方面からのターミナル駅として利用する学生が集まる、いわば「子供の町」であった。そのためか、1950年代半ばまでは警察も飲食店での揉め事に関知しない「無警察地帯」であったとされ、そこに目をつけたものと思われる。 トレードマークとして知られる左頬の傷は、1949年春の夕暮れどき台湾人の蔡という人物に銀座・並木通りとみゆき通りの交差点付近で言い掛かりを付けられ、喧嘩になりかかった際に「待ってくれ!上着を脱ぐから」と云うので律儀に待っていたところ、咄嗟に上着に隠してあった短刀で切り付けられた時のものである。 映画『網走番外地 吹雪の斗争』に出演した際、監督・石井輝男に無断で撮影現場を離れて帰ったことがある。石井は含むところもなく、安藤とこれ以降の映画でも仕事をしている。 俳優として出演していたのは専ら映画だったが、1970年にはテレビ時代劇『新・三匹の侍』にも主演している。監督を務めた五社英雄とは互いに義兄弟と認めた間柄であり、五社自ら自分の映画への出演を安藤に打診していたが、1974年、東映配給の映画『暴力街』において安藤は江川紘一役で主役を務めた。 唐十郎監督映画『仁侠外伝 玄界灘』撮影中に本物の拳銃を使い、監督とともに小田原署に逮捕される。安藤によればこれは宣伝のためで、捕まることが前提であったという。撮影現場には新聞記者も呼んでいた。 安藤は俳優として人気も実力もあったが、あま...

早坂暁さんの残した最後の言葉【小説家】 1929年8月11日~2017年12月16日

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『あなたたちに伝えたいこと』 (地元の中学生たちへの最後のメッセージ) あなたたちは、自分がどのようにして生まれてきたと思いますか?もちろん、お父さんとお母さんがいないと生まれてきません。 いや、うちはお母さんだけだよ、お父さんだけなんだ、という人もいるかもしれません。 でもあなたたちがお母さんのおなかに宿ったときは、一人ではなかったはずです。 お父さん、お母さんにはその両親がいて、それはあなたたちのおじいさんやおばあさんだけど、そのまたおじいさん、おばあさん…。 その数は五代前までさかのぼると、単純計算で約六十人、十代前だと何と約二千人になります。 その一人でも欠けたら、今あなたたちはここに存在していません。 つまり、あなたたちが生まれたのには、大きな大きな意味があるのです。 あなたたちは、誰もがすべて、かけがえのないひとりひとりなのです。 そして、あなたたちは、自分の名前について聞いたことがありますか? 自分の名前にどういう意味があるのか、どういう気持で名付けられたのかを知るのは、とても大切なことです。もし、まだ知らない人がいたら、今日帰っておうちで聞いてみて下さい。 ちなみに僕の名前は、四国遍路をしていたお坊さんに付けて貰いました。 僕は、生まれたときにとても体が弱く、お医者さんから十才までは生きられないだろうと言われました。 お医者さんからも見放され、もうお大師さまにおすがりするしかないと考えた母親は、何とか助けたいと、小さな僕を乳母車に乗せて四国遍路に出ました。 大人でも大変なお遍路です。今のように車も電話もありません。もちろんコンビニもありません。そんな時代に乳母車を押して四国を歩き通すのはさぞかし大変だったと思います。 途中、いろんな人に助けて貰いました。山の上の札所に行くときは、知らないおじさんがおぶってくれ、海辺ではお接待で漁師の女の人のお乳を貰ったりもしたそうです。 母親だけではとうてい四国を回れなかったでしょう。いろんな人に助けて貰いながら八十八カ所を回ることができたのです。 そのおかげでしょうか、僕は八十八歳になった今も元気です。 人は人と結びあい、触れ合わなくては生きていけない生き物です。たった一人では生きていけません。人が一番学ばなければならないことは、どうやって助け合い、どうやって分かち合う...

早坂暁さんの残した言葉【小説家】 1929年8月11日~2017年12月16日

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「夢です。夢がなくては、人は大きくならん。米や魚は体を大きくするだけだよ。」 日本の小説家、脚本家。本名、富田 祥資。 愛媛県温泉郡北条町生まれ。日本大学芸術学部演劇学科卒業。 新聞社編集長を経て、いけばな評論家として活躍。日本テレビで制作・放送された『ノンフィクション劇場』には、放送作家として全作品に関わる。 その後テレビドラマや映画の脚本、小説を手がけ、常に庶民の目線で独自の作風を築く。ドキュメンタリーや舞台戯曲、演出も手がけ、その総数は1000本以上ともいわれる。 代表作は『天下御免』『夢千代日記』『花へんろ』『ダウンタウン・ヒーローズ』『華日記・昭和生け花戦国史』『戦艦大和日記』など。必殺シリーズでは脚本をはじめ、オープニングナレーションも多数手掛けている。なかでも『必殺からくり人』の脚本は史実と虚・世相を織り交ぜながらの巧みなストーリとなっており、既存の必殺シリーズとは一線を画した内容で評価が高い。 生家が遍路みちに面した大きな商家で、幼少より遍路に接してきたこと、また、遍路に置き去りにされ、生家が引き取って「妹」として育った少女が、広島で原爆に遭い死亡したと思われることなどから、遍路や原爆に関する作品や論評、活動も多く、生家をモデルにした『花へんろ』、胎内被爆者が主人公の『夢千代日記』につながっている。

力道山さんの残した最後の言葉【戦後最大の英雄】1924年11月14日~1963年12月15日

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「おれは死にたくない」 (最後の言葉) 日本のプロレスラー、大相撲力士。 本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。 性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札でチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。 可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。 また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている。

力道山さんの残した言葉【戦後最大の英雄】1924年11月14日~1963年12月15日

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「3年間、私に預けなさい。きっと立派なレスラーにしてみせる。そしてブラジルに、日本のプロレスの花を咲かせるのだ。」 昭和35年のブラジル遠征で、力道山はサンパウロの青果市場で働いていた猪木をやっと見つけ、猪木の面倒を見ていた市場の主、児玉満さんに約束した言葉。 「人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければ噛みついても試合はできる。」 「男が人の上に立って成功するには、方法はたった一つしかない。それは過去に誰もやったことのないことを、一生懸命やることだ。」 日本のプロレスラー、大相撲力士。 本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)。 性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札でチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。 可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。 また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で対戦した相手と仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている。

ウォルト・ディズニーさんの残した最後の言葉【ディズニーランド創設者】1901年12月5日~1966年12月15日

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「good by」(さよなら) (いつもは「またな」としか言わなかったそうです。) (最後の言葉) アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナーである。 世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。

ウォルト・ディズニーさんの残した言葉【ディズニーランド創設者】1901年12月5日~1966年12月15日

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「When people laugh at Mickey Mouse, it’s because he’s so human; and that is the secret of his popularity.」 (みんながミッキーマウスを見て笑えるのは、彼がとても人間らしいからだ。それが彼の人気の秘密だ。) 「When we go into that new project, we believe in it all the way. We have confidence in our ability to do it right. And we work hard to do the best possible job.」 (新しいプロジェクトをひとたびやると決めたら、とことん信じ込むんだ。うまくやる能力があると信じるんだ。そして、これ以上はできないという最高の仕事をするんだ。) 「There is more treasure in books than in all the pirates’ loot on Treasure Island and best of all, you can enjoy these riches every day of your life.」 (宝島の海賊たちが盗んだ財宝よりも、本には多くの宝が眠っている。そして、何よりも、宝を毎日味わうことができるのだ。) 「The way to get started is to quit talking and begin doing.」 (何かを始めるためには、しゃべるのをやめて行動し始めなければならない。) 「It’s kind of fun to do the impossible.」 (不可能なことに取り組むのは、楽しいものだ。) 「Inside every sophisticated grownup adult is a little kid just dying to get out.」 (どんな洗練された大人の中にも、外に出たくてしょうがない小さな子供がいる。) 「If you can dream it, you can do it.」 (夢見ることができれば、それは実現できる。) 「I can never stand still. I must explore...

仰木彬さんの残した言葉【平成の名将】1935年4月29日~2005年12月15日

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「山に登るルートはたくさんあるのだから、自分の成功体験を押し付けてはいけない。」 福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。 昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任した。 現役時代から、かなりの遊び人だった。選手時代は「グラウンドの外ではいくらでもムチャやってくれたらいい」と選手に言っていた三原監督からも「仰木と豊田だけは遊びに制限をかけんといかん」とこぼされるほどだった。西鉄の島原キャンプの休日に船で天草まで遊びに行ったものの、海が荒れてその日のうちに帰れず、翌日の昼過ぎにコッソリと帰ってきたら、三原監督からバントの練習だけをするように命令されたという。後にスカウトされた清原和博も、「朝飯のお茶代わりにビールを飲むような人」と自身の著書で語っていた。 本人はグラウンドの外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わなかった。しかし練習そのものはかなり厳しく、とりわけ走りこみの量は12球団一とされるほどだった。ただし、これは根性論・精神論ではなく、あくまで試合で結果を出すことが目的であった。実際、1989年にコンディショニングコーチに就任した立花龍司がまだ日本では普及していなかった量よりも質を重視した最新のトレーニング理論に対して、他のコーチが反発する中で理解を示し、その年リーグ優勝を達成したことで、立花を高く評価した。 オリックス監督時代の96年のオールスターゲームで監督を務めた際に、当時オリックスのイチローを投手として起用する采配をおこない話題となった。この時の打者は松井秀喜であったが、セ・リーグ監督の野村克也はこのことに抗議する意味で、代打に投手の高津臣吾を送った(結果は内野ゴロ)。なお、その前年に仰木率いるオリックスは西武戦で東尾修監督が起用したピッチャーオレステス・デストラーデと対戦している。デストラーデは1死も取れずに降板した。

メイ牛山さんの残した言葉【元祖カリスマ美容師】1911年1月25日~2007年12月13日

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「洋服には、人の心をプラスに変えるパワーがある」 日本の美容家。「ハリウッド化粧品」ブランドで知られるハリウッド株式会社会長・ハリウッド美容専門学校学長・ハリウッドビューティサロン社長などの要職を歴任した。山口県防府市出身。「メイ牛山」名としては2代目で、初代は夫の先妻の牛山春子。 昭和14年、ハリウッド化粧品の創業者牛山清人と結婚、以来メイ牛山の名前を継いで欧米の最新技術を取り入れながら日本の美容界を作り上げる一翼を担う。ニューヨークでは『ローマの休日』等を担当したエディ・センズにメイクを、レオン・アメンドラーにヘアを師事。その後、日本でも酵素の働きを日本で最初に化粧品に取り入れるなど化粧品の開発も行う。「酵素パック」はハリウッド化粧品の代名詞ともいれるロングセラー製品となる。女優の司葉子、稲垣美穂子、藤村志保、岩下志麻、久我美子、芳村真理、岸惠子等はハリウッドと供に育ってきた女優陣である。写真家秋山庄太郎とはお互いデビュー当時からの盟友である。 昭和33年、日本がアメリカ式食生活に移行し始めた頃すでに、健康食品の開発と提唱をはじめ、これがライフワークとなる。日本の気候風土に合わせた美容法や食事法が大切であるという「四季の美容法」や、皮膚、身体、心の汚れを排泄することが美容の根本という独自の「三大排泄美容 - SBM理論」を提唱、お化粧だけでなく、体の中、心の中から美しくある事が、本物の美しさである事を日本で最初に提唱。 チャーミングな個性、トレードマークのお団子ヘアスタイルからお茶の間でも人気となり、「笑っていいとも」「いただきます」「徹子の部屋」などで活躍、著作も30冊を越えた。また、ハリウッド美容専門学校で長年にわたって指導に当たるなど、後進の育成にも力を尽くした。90歳を超えてなお第一線で活躍した。2003年には長年住んだ六本木ヒルズを、森ビル、テレビ朝日と3社合同で開発、ヒルズブームを起こした。

森本龍石さんの残した言葉【書道家】1940年8月3日~2017年12月13日

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「個性を出すのが本当の書。だから誰もが書家」 「墨液だと同じだが、墨を使えばひとつとして同じ文字は書けない」 「墨をするのに3日。大きな筆で書くとすぐになくなる」 日本の書道家。 斬新でモダンな書道スタイルを作り上げ、国際交流に力を注ぎ世界各国で書の普及につとめた。特にブラジル、ロシア、ウクライナ、キルギス、韓国での活動が活発だった。2001年よりモスクワ現代美術館が森本龍石作品をピカソ・シャガール作品と同室に常設展示。

ウォーレル・デインさんの残した言葉【サンクチュアリ・ネヴァーモア】1961年3月7日~2017年12月13日

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「ステージにいるのは世界一最高の気分なんだ。出番をじっと待つのは辛いけどね。」 「あの頃は(自分達が)シアトルのバンドであることに奇妙な思いを抱いていた。グランジの人気であれだけ爆発的だったから、それに倣えというプレッシャーが物凄かった。」 「俺だって過去のあるバンドのコンサートを観に行けば昔の曲を聴きたい。それをバンドがやらなかったら腹が立つだろうな。だから俺達もやっているんだ。」 「俺が書く曲は夢の中で思いつくものが多い。俺は夢日記をつけていてね、夢で見たことを常に書き留めている。」 「自分達の音楽だけで食べていけるようになるには、物凄い枚数のレコードを売らなくてはならない。」 「俺は敢えてヘビーメタルは余り聴かないようにしているんだ。聴くと自分の好きなバンドに影響されてしまうからね。(笑)」 「初来日のとき、道端にビールの販売機があるなんて信じられなかったよ。あんなものがアメリカにあったら、設置された瞬間に子供がぶっ壊して盗っていくよ。」 「俺も嫌なことを随分経験したし、苦悩の時期も体験した。嫌なことを経験すると、良い事に対する感謝の気持がずっと大きくなる。」 「心から好きなのはやっぱりヘビーメタルだけど、ミュージシャンだったら色々なタイプの音楽を認めてそれを聴くべきだと思うね。」 「80年代はとても特別な時代だった。凄く良いバンドが成長していたかと思えば、至って普通のバンドもいた。良いバンドはトップに躍り出て、それほど良くないバンドは消えて行ったんだ。」 「俺達はずっと今と同じ音楽をプレイしてきた。正直にやりたい音楽をやっていれば、聴衆にはそれが伝わるはずだ。」 「俺が解釈する言葉の意味と、他の人が解釈する言葉の意味は違っているからね。でも、それこそが芸術や詩や音楽の魅力だと思う。」 「メタルシーンでは誰もが、程度こそ違えど顔見知りみたいなものだからね」 アメリカ合衆国出身のボーカリスト、ミュージシャン。 同国のヘヴィメタル・バンド「サンクチュアリ」及び「ネヴァーモア」のボーカリストとして知られ、ソロも並行して活動している。 かつて5年ほどオペラ歌手としてトレーニングを受けていたこともあり、その声域は彼を教えていた講師によると5~6オクターブあるとの事。通常は独特のバリトンで歌う事が多い。 所属バンドでのソングライティングも...

中岡慎太郎さんの残した言葉【陸援隊隊長】 1838年5月6日~1867年12月12日

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「正道を踏み、義を尽くすのが政府の本務である。戦の一字を恐れて、政府の本務を貶めるようでは、外国から侮蔑されて、却って、好親が敗れてしまう。」 「我輩同志の志を達する日を内にて待ち候ては、決して百年待てもその期これある間敷く。」 「非常の難を救う者は、非常の行なくんば有るべからず。」 「国家興亡は離同にあり、敵の強弱に関係せざるなり。」 「世間因循(いんじゅん)傍観区々として、只(ただ)人の失策を求め笑い、坐して天下の機会を失し甘じて人の後に落つ。」 「邑(むら)ある者は邑を擲(なげう)ち、家財ある者は家財を擲ち、勇ある者は勇を振い、智謀ある者は智謀を尽し、一技一芸ある者はその技芸を尽し。」 「学問を成し遂げる志を立てたのならば、目先の貴賤で心を動かされてはいけない。」 「実に天下、無茶苦茶に相成り候。言語に絶し悲憤極り申し候。天下挽回再挙なきにあらず、しかしながら、今しばらく時を見るべし。涙を抱えて沈黙すべし。外に策なし。」 「大君の辺にこそ死なめ大丈夫 都はなれて何か帰らん」 「俺らを暗殺にくるとは、刺客も偉い奴だな、勇気がある。」 「討幕のために、『戦』の一字あるのみ。」 「志とは目先の貴賎で動かされるようなものではない。今賤しいと思えるものが明日は貴いかもしれない。君子となるか小人となるかは家柄の中にない。君自らの中にあるのだ。」 「謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。」 「他に策なし」 「涙を抱えて沈黙すべし」 日本の志士。陸援隊隊長。名は道正。通称ははじめ福太郎、光次、のち慎太郎。号は遠山・迂山など。変名は石川清之助など。坂本龍馬らと共に薩長同盟の斡旋に尽力するも近江屋事件で横死した。贈正四位。

小津安二郎さんの残した最後の言葉【名監督】1903年12月12日~1963年12月12日

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「映画はドラマだ、アクシデントではない。」 (最後の言葉) 「何も悪いことをした覚えはないのに、どうしてこんな病気にかかったんだろう。」 (最後の言葉) 「右足がどっかに行っちゃったのかね。ベッドの下に落っこちているんしやないかね。」 (最後の言葉) 日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。 「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。 小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このなにげない反復の運動、その美しい規則性を見逃すことなく捉え、無上の至福にも似た、かりそめの調和といったものをわれわれに夢みさせるのである」と述べている。 1920年代、ハリウッドで映画製作に携わっていたヘンリー小谷(小谷倉市)が松竹蒲田撮影所に招かれ、ハリウッド流の映画製作技術を伝えた。その一つに、構図の中に俳優たちを配置し、その構図が崩れないように、カメラの動きと俳優の動きを制限するやり方があった。この手法が小津に大...

小津安二郎さんの残した言葉【名監督】1903年12月12日~1963年12月12日

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「男女の仲というのは、『男が夢を見るのをやめ、女が紅を差すのをやめた』ときは、あきらめろ。」 「男女の仲というのは、『予想がつく』ときは、あきらめろ。」 「いたずらに激しいことがドラマの面白さではなく、ドラマの本質は人格を作り上げることだと思う。」 「ぬくもりだの暖かさだの、そんなのはゴマカシですよ。僕は、人生の本当の姿を描きたいんです。」 「しかし、世の中なんて、みんなが寄ってたかって複雑にしてるんだな。案外、かんたんになるもんさ。」 「お茶漬けだよ。お茶漬けの味なんだ。夫婦はこの、お茶漬けの味なんだよ。」 「男女の仲というのは、夕食を二人っきりで三度して、それでどうにかならなかったときは諦めろ。」 「どうでもよいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」 日本の映画監督・脚本家。「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出し、世界的にも高い評価を得ている。「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けたが、代表作にあげられる『東京物語』をはじめ、女優の原節子と組んだ作品群が特に高く評価されている。 「小津調」とは、小津安二郎がつくりあげた独自の映像世界・映像美をさす。その主な特徴として、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排することなどがある。また、日本の伝統的な生活様式へのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、同じ俳優・女優が繰り返しキャスティングされることも小津調を作り上げる要素の一つになっている。 小津が求めた画面の完璧さは小道具や大道具の配置、色調にとどまらず、演じる俳優たちにも求められた。俳優の位置、動きから視線まですべて小津監督の計算したとおり実行することが求められた。これによって画面に完璧な美が生まれた。松竹の後輩として小津監督を見ていた吉田喜重は美しさへのこだわりから生み出される画面の美について「それはこの世界が無秩序であるがゆえに実現した、かりそめの幻惑であったのだろう。おそらく小津さん自身のこの世界を無秩序と見るその眼差しが、このな...

山本清一さんの残した言葉【日本一の瓦葺職人】1932年11月1日~2018年12月12日

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「職人というのは、人知れず役に立ってればええんや。」 「できへんやつが一生懸命にやるほどきれいなものはない。できるからっちゅうて手を抜くと魂が入った仕事にならへん。」 「一生懸命にやってたら、神さんか何かわからんけど力を貸してくれるんやな。」 「まあ、90%は失敗するやろ。残り10%は勝算やのうて希望ですわ。」 日本の瓦工事技術者、日本伝統瓦技術保存会会長。奈良県生駒市に生まれる。奈良の寺院や姫路城の修理に携わった。 父は瓦を葺く職人で清一は尋常高等小学校卒業後に職人になり21歳まで父の下で仕事をする。その後、文化財の瓦葺きの棟梁の井上新太郎のもとで修行し、26歳で独立した。東大寺大仏殿や法隆寺金堂など多くの伝統的な建築物の復元、再建に取り組む。1960年、28歳で姫路城昭和大修理の瓦工事の棟梁が辞め次の棟梁に抜擢され務める。1963年、31歳で会社組織化し山本瓦工業株式会社を設立する。2000年に従来の瓦の問題点を解決した南都平瓦を開発し特許取得する。 1994年には文部大臣より、選定保存技術保持者「屋根瓦葺(本瓦葺)」に認定される。主に、法隆寺金堂、姫路城、東大寺大仏殿、薬師寺、唐招提寺金堂、平城宮跡朱雀門・大極殿、東本願寺、松本城の修復に携わる。1998年には労働大臣卓越技能者表彰、さらに、2001年には黄綬褒章、日本伝統瓦技術保存会3代目会長に就任する、2007年には旭日双光章を受章する。2011年姫路城の平成大修理の屋根瓦の工事を統括する棟梁に再度選ばれる。現役を続けるとともに次世代の育成に力を入れていた。

サム・クックさんの残した最後の言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日

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「Lady You Shot Me!」 (あんた、俺を撃ったな!) (最後の言葉) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。 1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。 1959年にキーン・レコードを離れる。1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった「ワンダフル・ワールド」が同レーペルから発売されヒット。 クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。 黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド・アリとも親交を深める。1964年の「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」に影響を受けて生まれた、人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングであった。 1964年12月11日、クックはロサンゼルスのハリウッドにある酒場で知り合った女性を「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーでサウスセントラル地区にあるモーテ...

サム・クックさんの残した言葉【ソウルシンガー】1931年1月22日~1964年12月11日

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「素晴らしくいい感じだ 素晴らしくいい感じだ 何も難しいことはない ただ感じるんだ 慌てないで 慌てないで 皆はパーティーを続けてくれ 僕は行かなきゃならない 家に帰ってもパーティーを続けてくれ どこに居てもパーティーを続けることを忘れないで 愛する人と一緒にいる時もパーティーを続けるんだ、分かったかい? ラジオを聴けば一人でも気分がいいし 車に乗ってるときもラジオつけてパーティーを続けよう ああ もう 行かなきゃ・・・・・・」 (遺言的なメッセージ) アメリカのソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。 ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。後に家族とともにシカゴに移住。父親は牧師であり、幼い頃から聖歌隊で歌う。19歳のときにゴスペル・グループのソウル・スターラーズのリードボーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。1957年にソロ歌手としてR&Bに転向し、「ユー・センド・ミー」がヒット。これをきっかけにR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。 1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーと共に音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、黒人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。 1959年にキーン・レコードを離れる。1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった「ワンダフル・ワールド」が同レーペルから発売されヒット。 クックの曲は、『ビルボード』のR&Bチャートだけでなくポップ・チャートでも上位に入った。1960年代には「チェイン・ギャング」(2位)、「ツイストで踊りあかそう」(9位)、「こんどの土曜に恋人を」(10位)、「シェイク」(7位)を全米トップ10に送り込んでいる。 黒人の権利に対する意識が高く、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド...

三輪壽雪さんの残した言葉【陶芸家・人間国宝】1910年2月4日~2012年12月11日

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「若い連中がまねしてやろうという根性になってはだめ。自分の仕事の力になるように受け止めないと」 日本の陶芸家。第11代三輪休雪。1983年に人間国宝に認定された。本名は節夫。 山口県萩市出身。代々萩焼を家業とし、旧萩藩御用窯であった三輪窯の九代休雪・三輪雪堂の三男として誕生する。 1927年旧制萩中学校卒業後、兄である十代休雪を助けながら伝統技法を学んだ。1941年に三重県津市に工房を構えていた川喜田半泥子に師事し、茶陶の制作技法を身につける。独立までの約30年間ひたすら修練に打ち込み、召集令が出された1944年以外は作陶の手を休める事はなかった。 1955年に雅号を「休」と称し作家活動を開始。1957年日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選し、1960年には日本工芸会正会員になるなど、十代休雪と並び高い評価を受けた。萩焼の伝統を受け継ぎながらも独特な感覚による作陶を為し、因習的な茶陶の作風に新たな展開を示した。長石を原料とした釉薬を用いる伝統的な萩焼に加え、休雪が大成した純白の藁灰釉による「休雪白」の作品を発表しているが、特に後者は豪快かつ大胆な意匠と融合し大きな特色となっている。 1967年、兄の休雪の隠居後、三輪窯を受け継ぎ第11代休雪を襲名。 1976年紫綬褒章、1982年には勲四等瑞宝章を受章、1983年4月13日に重要無形文化財「萩焼」保持者に認定された。兄弟での人間国宝認定は陶芸界で前例の無い快挙であった。 その後も作陶への探究を続け、粗めの小石を混ぜた土を原料とした古くからの技法である「鬼萩」を自らの技法へと昇華させた。2003年に長男龍作へ休雪を譲り、自らは壽雪と号を改めた。土練機を用いず土踏みでの粘土作りを続けるなど、全ての作陶過程を自らの手で行う事にこだわりを持ち、晩年まで活動を続けた。2012年12月11日、老衰のため死去。102歳没。叙従五位。

坂本龍馬さんの残した辞世の句【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」 (辞世の句) 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。

坂本龍馬さんの残した言葉【土佐藩士】1836年1月3日~1867年12月10日

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「世界の海援隊でもやりますかな」 「しかし惜しい。お前は、不浄の小役人になって上士のあごで使われているような男ではない。天下は動いちょる。同じ死ぬなら竜馬の刃にかかるよりも日本のためになって死なんかい。お前に土佐は狭すぎる」 「天誅というのは聞こえがよいが、暗い。暗ければ民はついて来ぬ」 「人の一生には命題があるべきものだ。おれはどうやら俺の命題の中へ、一あしだけ踏み入れたらしい」 「財政の独立なくては、思想の独立もなく、行動の自由もない」 「業なかばで倒れてもよい。そのときは、目標の方角にむかい、その姿勢で倒れよ」 「何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから」 「義理などは夢にも思ふことなかれ。身をしばらるるものなり。」 「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり」 「日本を今一度せんたくいたし申候」 江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。 諱は直陰、のちに直柔。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎などの変名がある 。 土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。

オーティス・レディングさんの残した最後の言葉【ソウルの神様】1941年9月9日~1967年12月10日

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「この曲(ドック・オブ・ザ・ベイ)は俺にとって初めてのミリオンセラーになるよ」 (最後の言葉) アメリカのミュージシャン。独特の歌唱法でソウルに多大な影響を与えた。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第8位。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第21位。 1960年代初頭にジョニー・ジェンキンズのパイントッパーズで音楽活動を始め、ソロ・シンガーとして契約後1962年に「These Arms of Mine」を発表(R&Bのチャートで最高位20位、Billboard Hot 100で85位と人気を博す)、この歌をきっかけに1964年スタックス傘下のヴォルトからアルバム『Pain in My Heart』を発表、アメリカ国内でアトランティック・レコードのもとで全国流通を果たす。同年、ブッカー・T&ザ・MG'sのスティーヴ・クロッパーと共同制作した「ミスター・ピティフル」は、R&Bシングル・チャートで最高位10位、Billboard Hot 100で41位となるヒットとなった。生前のシングルレコードで最も評判を呼んだのは、ジェリー・バトラーとの「I've Been Loving You Too Long」で、R&Bのシングル・チャートで2位を記録して彼のキャリアの中で最も高い評価を得る作品となり、続く「リスペクト」(後にアレサ・フランクリンによるカヴァーが大ヒットする)はR&Bチャートで4位を記録した。その後、「アイ・キャント・ターン・ユー・ルース」、「サティスファクション」(ローリング・ストーンズのカバー)といった曲がヒットして、古いラブ・ソングをリサイクルした「Try a Little Tenderness」は、1966年の代表曲となった。そして、1967年のモントレー・ポップ・フェスティバルに出演して評価を得た。このフェスティヴァル出演後、喉の異変を訴え、ポリープが見つかり医者から2ヶ月間歌う事を禁じられ、後の曲調の変化に大きな影響を与えた。 モントレー・ポップ・フェスティバル 白人のロック・ミュージシャンが多数出演するモントレー・ポップ・フェスティバルにオーティスが出ることについて、当初は難色を示す者が多かった。オーティ...

江戸家猫八(3代目)さんの残した言葉【物真似師】1921年10月1日~2001年12月10日

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「変わったところがなければ、魅力がないですよ。ふつうから少し離れなきゃ。」 物真似師、俳優。落語芸術協会に所属していた。本名は岡田 六郎。愛称は江戸猫。 自ら車の運転をしていたが、自宅の車庫が非常に狭く、常に車庫入れの際は車庫の壁と車の隙間が数センチ単位での微調整を余儀なくされており、車庫入れの模様をワイドショーやバラエティー番組などで放送されることもあった。 中央競馬の馬主としても活動しており、中央競馬で10勝を挙げた他京成杯3歳ステークス、東京4歳ステークスで2着に入ったキヤツトエイトなどを所有した。

市川森一さんの残した言葉【ウルトラセブン】1941年4月17日~2011年12月10日

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「寒椿は、武士の娘に似ている。寒椿は、寒い時ほど美しい。武士の子なら、逆境にあるときほど、凛として美しくなければならない」 「人生は、出会いが大事ばい。ばってん、出会いたか人とは、滅多に出会わん。出会いたか時に出会えるとも限らん。自分を分かってくれる人はいても、その人と出会うこともなか。そこが、人生のせつなかところたい。・・・僕はね、蝶々さんのお父さんになりたかったなァ」 日本の脚本家、劇作家、小説家、コメンテーター。日本放送作家協会の会長を務めた。長崎県諫早市出身。 妻は『マキちゃん日記』で知り合った女優の柴田美保子。妹は放送作家の市川愉味子。父は旧海軍大村航空隊の教官。 代表作は『傷だらけの天使』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『コメットさん』『露玉の首飾り』『TAJOMARU』など多数。 キリスト教の影響を多大に受けており、ウルトラシリーズの脚本では、新約聖書や神話に由来する名前を持つ怪獣や設定を多用したことでも知られる(ペテロ、バラバ、ゴルゴダの丘→ゴルゴダ星、アイスキュロス→アイロス星人、マナ→フルハシ・マナ、プロメテウス→プロテ星人、サロメ→サロメ星人など)。

小沢昭一さんの残した言葉【小沢昭一的こころ】1929年4月6日~2012年12月10日

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「人間がみんなで一緒に豊かになるのがいいことなのか、それとも、豊かな人と、そうでない人がいる矛盾した世の中を、だから創造力が生まれるんだと肯定するのか。あるいは、一転、みんなでそろって適当に貧しくなるという第三の道を、今こそ考えてみる必要はないのか。」 「正義の戦争より不正義の平和」 「幸せはささやかなるが極上」 日本の俳優、タレント、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇俳優協会会長。俳号は小沢 変哲。劇団「しゃぼん玉座」主宰。見世物学会顧問。 1973年(昭和48年)には、TBSラジオの『小沢昭一の小沢昭一的こころ』が放送開始される。 2012年9月24日放送分以降、テーマは「新宿今昔について考える」のはずだったが体調不良のため未収録となり小沢本人の収録は通算10355回で打ち切られた。

夏目漱石さんの残した最後の言葉【日本の文豪】1867年2月9日~1916年12月9日

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「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」 (最後の言葉) (寝間着の胸をはだけながら) 「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」 (最後の言葉) (四女・愛子が泣き出し、それを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめるように) 日本の小説家、評論家、英文学者。本名は夏目 金之助。俳号は愚陀仏。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。漱石の私邸に門下生が集った会は木曜会と呼ばれた。 江戸の牛込馬場下横町出身。

夏目漱石さんの残した言葉【日本の文豪】1867年2月9日~1916年12月9日

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「月が綺麗ですね。」 「ああ、苦しい、今、死にたくない。」 「自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていない程、苦しい事はない。」 「時代の風潮、自分を取り巻く環境、さまざまな価値観、それらを正しく見きわめ、自分の判断で行動できるのは、どこにも属さない『迷子』だけだ。」 「表面を作る者を世人は偽善者という。偽善者でも何でもよい。表面を作るという事は、内部を改良する一種の方法である。」 「世の中に片付くなんてものは、殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから、他にも自分にも解らなくなるだけの事さ。」 「金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ。義理をかく、人情をかく、恥をかく、これで三角になるそうだ。」 「他の親切は、その当時にこそ余計なお世話に見えるが、後になると、もういっぺんうるさく干渉してもらいたい時期が来るものである。」 「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ。」 「人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。」 「教えを受ける人だけが自分を開放する義務を有っていると思うのは、間違っています。教える人も己れを貴方の前に打ち明けるのです。」 「あらゆる芸術の士は、人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。」 「道徳に加勢する者は、一時の勝利者には違いないが、永久の敗北者だ。自然に従う者は、一時の敗北者だが、永久の勝利者だ。」 「自分の好きなものは、必ずえらい人物になって、きらいなひとは、きっと落ちぶれるものと信じている。」 「自己を捨てて神に走るものは神の奴隷である。」 「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼等何者ぞやと気概が出ました。」 「四角の世界から常識と名のつく一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでも良かろう。」 「運命は神の考えることだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。」 「鏡は自惚れの醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。」 「細君の愛を他へ移さないようにするのは、夫の義務である。」 「全ての夫婦は新しくなければならぬ。新しい夫婦は美しくなければならぬ。新しく美しき夫...