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3月, 2018の投稿を表示しています

特攻隊員の遺書 林市造大尉【母親へ】

 一足さきに天国に参ります。  天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈つて下さい。  お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。 お母さん。さよなら。 一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり 母マツヘさんの手記  泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。  日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。  そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。

特攻隊員の遺書 海野馬一少佐【我が子へ】

愛児へ  児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。  汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。  他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。  汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。  母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。  和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。  人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。  和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。  又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。  父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。 (中略)  「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。  瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。  和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。 (後略)

特攻隊員の遺書 谷暢夫少尉【母親へ】

母親と面会して 子を思う御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ぬつ 山よりもはるかに高し 海よりもはるかに深き 親の恩かな 家郷への最後の書簡 親を惟ひ 国を憂ふる心あらば 身を桜花となりて 散りゆかん 遺書  はじめありて 終りあるもの 鮮し  永らくのご厚思を謝す。何一ツ親孝行らしきことなき小生も、最初の最後の親孝行を致します。  忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと感心します。ご両親の長命を切に祈ります。  日の本の空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ桜花こそ 辞世 身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り 身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん

特攻隊員の遺書 水知創一大尉【兄弟へ】

愼二様  急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。  愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。  兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。  今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。  では元気でしっかりやって下さい。 創一

特攻隊員の遺書 篠崎眞一少佐【妻へ】

 玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。  四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。  父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。  私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。  結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。  くれぐれも後を賴むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。  後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。  最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

特攻隊員の遺書 伊藤甲子美伍長【妻へ】

至らない身、お詫びを致します。  季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。  短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。  私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。  さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。  何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。  どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

エリック・ナイト【遺書】

私たちは立派な恒久的な平和を作らねばならないことはわかっており、そのためにアメリカが戦後の世界再建の事業における自分の仕事を引き受けるべきなのだ。 わたしたちは、覚悟をきめなければならない・・・ この戦争をわれわれのもてる力の限りを出し尽して戦いぬくことを。  アメリカ 43歳 1943年戦死

アラン・ルイス【遺書】

新年のお便りありがたくいただきました。わたしの身を案じてくださるお言葉は、私をいつも守ってくれるでしょう。 私はこれまでお父さんとお母さんの愛に守られ幸福に過ごしてきました。砲兵隊将校の服を身につけていますが、わたしは昔と変わりません。この「将校の身にこれから何が起ころうとも、私の愛はまずしくなることはなく、純粋さが失われることもないでしょう。 イギリス 29歳 ビルマにて戦死

ハインツ・ボールマンさんの残した遺書【第一次世界大戦】

深く愛する御両親さま!ひとつお願いがあります。私のために嘆かないで下さい。私を悼んで下さい。あなた方も、苦悩に堪えるドイツ人だということを示して下さい。 やっぱり私は、将来を信じます。新しい、より大きな、よりよい祖国のために私は喜んで若い命を捧げます。 ドイツ ベルリン大学 22歳 第一次世界大戦 戦死

ヴェルターロイさんの残した遺書【第一次世界大戦】

突撃の前に。 愛する皆様。これを手にしたら、僕は皇帝のため、祖国のため、皆様のために戦死したものと御承知下さい。いよいよ激戦を交えなければなりません。時は光りかがやき心うかれる春です。もう何もいうことはありません。僕は喜んで感謝して幸福に死ぬでしょう。 恵み深い大いなる神が皆様とドイツの祖国を護り祝福し賜らんことを! 心から愛をもって。  ドイツ イエア大学 21歳 第一次世界大戦 戦死

特攻隊員の遺書 穴沢利夫少尉【恋人へ】

会ひたい、話したい、無性に。  二人で力を合せて努めて来たが終に実を結ばずに終わつた。  希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れてゐた”時期を失する”といふことが実現して了つたのである。  去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処を変へつゝ多忙の毎日を送つた。  そして今、晴れの出撃の日を迎へたのである。便りを書き度い、書くことはうんとある。  然しそのどれもが今迄のあなたたの厚情に御礼を言ふ言葉以外の何物でもないことを知る。  あなたの御両親様、兄様、姉様、弟様、みんないい人でした。  至らぬ自分にかけて下さつた御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがたうござゐました」と最後の純一なる心底から言つておきます。  今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。  常に正しい判断をあなたの頭脳は与へて進ませてくれることゝ信ずる。  然しそれとは別個に、婚約をしてあつた男性として、散つてゆく男子として、女性であるあなたに少し言つて征きたい。 「あなたの幸を希ふ以外に何物もない。 「徒らに過去の小儀に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。 「勇気をもつて過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。  あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。  穴沢は現実の世界にもう存在しない。  極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。  鈍客観的な立場に立つて言ふのである。  当地は既に桜も散り果てた。大好きな嫩葉の候が此処へは直きに訪れることだらう。  今更何を言ふかと自分でも考へるが、ちよつぷり欲を言つて見たい。  1.読みたい本  「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」  2.観たい画  ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」  3.智恵子。会ひたい、話したい、無性に。  今後は明るく朗らかに。 自分も負けずに朗らかに笑つて征く。 穴沢少尉には智恵子さんという婚約者がおられた。二人は昭和16年にそれぞれが学生であったときに知り合い、交際を始めた。当時、学生同士の恋愛ははしたないものと言われ...

特攻隊員の遺書 宮崎勝少尉【兄弟へ】

妹へ  ヤスコチヤン、トツコウタイノニイサンハシラナイダラウ。ニイサンモ ヤスコチヤンハシラナイヨ。  マイニチ、クウシユウデ コワイダラウ。ニイサンガ カタキヲ ウツテヤルカラ、デカイボカンニタイアタリスルヨ。  ソノトキハ フミコチヤント、ゴウチンゴウチンヲウタツテ、ニイサンヲヨロコバセテヨ。 宮崎少尉はまだ会っていない自分の妹「ヤスコチャン」に遺書を残した。妹たちを想う兄の気持ちが伝わってくる遺書である。

特攻隊員の遺書 大石清伍長【兄弟へ】

妹へ  静(せい)ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますい、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく。 兄ちやんより 大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)  大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。  伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。  伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。  伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。さやうなら 遺書  なつかしい静(しい)ちやん! おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。 ...

特攻隊員の遺書 緒方襄中尉【母親へ】

遺詠  出撃に際して 懐しの町懐しの人 今吾れすべてを捨てて 國家の安危に 赴かんとす 悠久の大儀に生きんとし 今吾れここに突撃を開始す 魂魄國に帰り 身は桜花のごとく散らんも 悠久に護國の鬼と化さん いざさらば われは栄ある山桜 母の御もとに帰り咲かなむ ロケット特攻機「桜花」搭乗員の緒方中尉は母機一式陸上攻撃機に搭乗し、鹿屋基地を出撃した。兄も学徒出陣で海軍中尉であった。御国思いの緒方家の兄弟、母は和歌で思いをお互いに伝えており、この遺詠は緒方襄中尉の母に宛てた辞世の句であった。

特攻隊員の遺書 広田幸宣少尉【母親へ】

なつかしい母上様、かあちゃんよ!! 拝啓 たびたびのおたよりうれしく拝見致しました。 この前の便箋七枚の手紙を見ては涙がとめどなくほゝを伝はりました。何回も何回もくりかへして読みました。金送りましたが、こんなによろこんで頂けるとは思ひませんでした。神様などへそなへなくともよろしいですから、すぐ用立てて下さい。少し金持らしくやつて下さい。財布が底抜けにならぬ様一ヵ月に一回は必ず補給します。・・・・・・  私は貯金はこちらでたくさんやつてゐますから、送つた金はぢゃんぢゃん使つて下さい。・・・みかん着いたさうで何よりです。出来たらもつと送りませう。玉ちやんにも小遣ひ出来るだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に、  お母さんの書いてよこされたことも近い中にあるかも知れません。こんど金が自由になつたらゆつくりと面会にこられないですか。やがては泊りもありますし、二十四時間のやすみもありますから、ゆつくり話も出来ますし、共に寝ることも出来るわけです。汽車は酔はなければよいのだがなあ。トランク要るなら送つてもよいです。ではお体大切に、 ベッドの中で なつかしい母上様、かあちゃんよ!! 広田少尉は予科練同期3名を含む8名で出撃された。アメリカ側の資料によっても空母フランクリン、軽空母ベロー・ウッドの2隻に大損害を与えている。このような大戦果をあげた勇敢な隊だが、隊員も生身の人間で母を慕う若者の手紙には胸が熱くなる。

特攻隊員の遺書 茂木三郎少尉【母親へ】

遺言(母への言葉)  僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。  お母さん、良く顔を見せて下さい。  しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。  十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。  お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。  それが僕の別れのあいさつです。 まだまだ若い19歳の予科練出身者である。母を思う心が文面からあふれ出すようである。

特攻隊員の遺書 山口輝夫少尉【父親へ】

「父上の名を呼んで突入します」  御父上様  なんらの孝養すらできずに散らねばならなかった私の運命をお許しください。  急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ本日沖縄の海へむけて出発いたします。命ぜられれば日本人です。ただ成功を期して最後の任務に邁進するばかりです。とはいえ、やはりこのうるわしい日本の国土や、人情に別離を惜しみたくなるのは私だけの弱い心でしょうか。死を決すればやはり父上や母上、祖母や同胞たちの顔が浮んでまいります。だれもが名を惜しむ人となることをねがってやまないと思うと、本当に勇気づけられるような気持がいたします。かならずやります。それらの人々の幻影にむかって私はそう叫ばずにはいられません。  しかし死所を得せしめる軍隊に存在の意義を見出しながら、なお最後まで自己を減却してかからねばならなかった軍隊生活を、私は住み良い世界とは思えませんでした。それは一度娑婆を経験した予備士官の大きな不幸といえましょう。いつか送っていただいた大坪大尉の死生観も、じつは徹し切っているようで、軍隊の皮相面をいったにすぎないような気がします。正を受けて二三年、私には私だけの考え方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。とくに善良な大多数の国民を偽瞞した政治家たちだけは、いまも心にくい気がいたします。しかし私は国体を信じ愛し美しいものと思うがゆえに、政治家や統師の補弼者たちの命に奉じます。  じつに日本の国体は美しいものです。古典そのものよりも、神代の有無よりも、私はそれを信じてきた祖先たちの純真そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。国体とは祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。  沖縄は五島と同じです。私は故郷を侵すものを撃たねば止みません。沖縄はいまの私にとっては揺籃です。あの空あの海に、かならず母や祖母が私を迎えてくださるでしょう。私はだから死を悲しみません。恐しいとも思いません。ただ残る父上や、多くのはらからたちの幸福を祈ってやみません。父上への最大の不幸は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。しかし私は最初にして最後の父様を、突入寸前口にしようと思います。人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えするこ...

特攻隊員の遺書 関行男大尉【両親へ】

父上様、母上様  西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。  今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。  鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ずる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。  本日帝国の為、身を以て母艦に体当を行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に 満里子殿  何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る  何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様  色々と思出をたどりながら出発前に記す  恵美ちゃん坊主も元気でやれ 教へ子へ  教へ子よ散れ山桜此れの如くに 最初の特攻隊指揮官である関大尉のご遺書。

特攻隊員の遺書 富田修中尉【両親へ】

「父ちゃん!母ちゃん!」  我一生ここに定まる。  お父さんへ、いふことなし。  お母さんへ、ご安心ください。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。  それだけで僕は幸福なのです。  日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいつた幾多の先輩達のことを考へます。  お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言つて下さい。  一言で十分です。いかに冷静になつて考へても、何時も何時も浮んでくるのは御両親様の顔です。  父ちゃん!母ちゃん!僕は何度もよびます。  「お母さん、決して泣かないで下さい」  修が日本の飛行軍人であつたことに就て、大きな誇りを持つて下さい。 勇ましい爆音を立てて先輩が飛んで行きます。  ではまた。 富田中尉は特攻隊員ではなかった。しかし、その覚悟、気持ちは同じであったということが伺えるご遺書である。

特攻隊員の遺書 富澤幸光中尉【両親へ】

「絶筆 靖國神社で待つてゐます」  お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよ ゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖國で二十四歳を迎へる事にしました。靖國神社の餅は大きいですからね。同封の写真は〇〇で猛特訓時、下中尉に写して戴いたものです。眼光を見て下さい。この拳を見て下さい。  父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖國神社ではまた甲板士官でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。  ニッコリ笑つた顔の写真は父様とそつくりですね。母上様の写真は幸光の背中に背負つてゐます。母様も幸光と共に御奉公だよ。何時でも側にゐるよ、と云つて下さつてゐます。母さん心強い限りです。  幸雄兄、家の事は万事たのむ。嘉市兄と共に嘉平、久平、保則君を援けて仲良くやつて下さい。  恩師に宜しく申し上げて下さい。十九貫の体躯、今こそ必殺轟沈の機会が飛来しました。小樽の叔父、叔母様に宜しく。函館の叔父、叔母様に宜しく。中野の祖父母様に宜しく。国本師顕殿、御世話を謝します。叔父さん、幸光は立派に大戦果をあげます。 富澤中尉は「私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。」と書き残して出撃されている。そして靖國神社に「来て下さるでせうね。」とも書き残している。この思いを戦後人々はきちっと受け止めてきたであろうか。

特攻隊員の遺書 永尾博中尉【両親へ】

靖國の社頭で 一、制を享け二十二年の長い間、小生を育まれた父母上に御禮申上げます。 一、親不孝の数々お許し下さい。 一、小生の身体は父母のものであり、父母のものでなく、天皇陛下に捧げたものであります。 小生入隊後は無きものと御覚悟ください。 一、小生も良き父上、良き母上、良き妹二人を持ち心おきなく大空の決戦場に臨むことが出来ます。 一、父上も好子、壽子を小生と心得御育み下さい。 一、母上、父上の事末永く呉々も御願ひ申上げます。 一、父、母上の、また妹の御健康をお祈り致します。 父さん 大事な父さん 母さん 大事な母さん 永い間、色々とお世話になりました。 好子、壽子をよろしくお願ひ致します。 靖國の社頭でお目にかゝりませう。 では参ります。お身体お大事に。 両親を思う心、妹を思う心が熱く伝わってくる。そして最後には我慢できずに両親に呼びかけている。

特攻隊員の遺書 小川清中尉【両親へ】

「最後の便り」  お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感激の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。  あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持で私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮びません。人は一度は死するもの、悠々の大義に生きる光栄の日は今を残してありません。  父母上様もこの私の為に喜んでください。  殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖國神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮しております。 清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。 2001年3月27日様々な人々の協力ににより、小川中尉の遺品が遺族に返還された。特攻隊員の突入時の遺品が返還されるというニュースはアメリカ、日本で新聞でも紹介され、テレビでも放映された。

特攻隊員の遺書 古谷眞二少佐【両親へ】

後顧なく千戈を執らんの覚悟なり  御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんこと、朝な夕なに神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。  大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧なく千戈を執らんの覚悟なり  特攻隊員の中には大変な才能を持った方もおられた。作家三島由紀夫が自殺の一ヶ月前に江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館でその遺書を読み、「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない」と言って、声をあげて泣き出したそうである。 この遺書は古谷中尉が繰り上げ卒業式の前に書いたものである。

特攻隊員の遺書 相花信夫少尉【両親へ】

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「母上 お許し下さい」 攻撃隊振武隊に加へられ、國恩に報ずることが出来ました。  父母上、信夫は勇躍征途につきました。  父母上、兄上の写真を飛行服に入れて。  父母上、信夫は子としてあるまじき無礼な言葉遣ひを遂に最後迄矯正せず、唯々漸愧に堪へません。  母上、六歳の時より育て下されし、生母以上の母上に対し 「お母さん」と呼ばなかつた信夫。  母上は如何程寂しかつたでせう。  呼ばふと幾度も思ひましたが、面と向かつては、恥しいやうで言へませんでした。  今こそ大声で以て呼ばして頂きます。「お母さん」と。  中支の兄の心境亦等しいでせう。母上、我等兄弟をお許し下さい。  今、特攻の征途につくに際し、心に掛るは以上の二つのみです。あとは 思ひ残すことはありません。  人生五十年、自分は二十歳迄長生きしました。残りの三十年は父母上に、 半分づつさしあげます。  同封の金は母上の好きな煙草代に使つて下さい。  父母上、では征きます。信夫は莞爾として敵艦必殺へ征きます。 少年飛行兵出身の純真な若者の父、母に捧げた遺書。継母であったらしく、自分の幼いときからの無礼をわびている。ご遺族の事を考えると胸が痛むが、愛情溢れる手紙である。

特攻隊員の遺書 松尾勲一等飛行兵曹【両親へ】

「ああ玉と砕けん」  父母上様 喜んでください。勲はいい立派な死に場所をえました。今日は最後の日です。皇国の興廃この一戦にあり、大東亜決戦に南海の空の花と散ります。大君の御楯となって、分隊長をはじめ共にいさぎよく死につき、七度生まれかわり宿敵を撃減せん。ああ男子の本懐これに過ぐるものがまたとありましょうか。これもみな長い歳月強くなれよと育ててくださった父母上と、またわが子のように育て御指導くださった分隊士先輩方々の賜と、あるいはまた血のにじむような訓練の賜と深く感謝いたしております。二三年の幾星霜、良く育ててくださいました。厚く御礼申上げます。今度がその御恩返しです。勲は良くも立派に皇国のために死んでくれたとほめてやってください。ほんとうに兄弟のなかで私は幸せ者でした。喜んでおります。弟も立派な軍人として御奉公できるようにしてください。お願いいたします。もうなにも思い残すことはありません。  父母上様 こんど白木の箱でかえります。靖国神社で会いましょう。長いあいだありがとうございました。くれぐれも御身御大切になさいますよう。  ああ雄々しき名も彗星艦爆隊、われら第五義烈隊特別攻撃自爆隊、むかう所は敵空母へ急降下。最後の影をカメラにおさめていただきましたので、いずれゆっくりニュース映画で見てください。ああ玉と砕けん特別攻撃。 咲くもよし散るも又よし桜花 両親に宛てた遺書。心優しく、純粋な若者の心情が伝わってくる。

特攻隊員の遺書 上原良司少尉【両親へ】

御両親様へ   生を享けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私ハ幸福でした。温き御両親の愛の下、良き兄妹の勉励に依り、私ハ楽しい日を送る事が出来ました。そして梢々もすれバ、我儘になりつゝあつた事もありました。この間、御両親様に心配を御掛けした事ハ兄妹中で私が一番でした。それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事ハ心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が孝行する事であると云ふ日本に於てハ、私の行動を御許し下さる事と思ひます。  空中勤務者としての私ハ、毎日々々が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり、遺言であつたのです。高空に於てハ死ハ決して恐怖の的でハないのです。この儘突込んで果して死ぬのだらうか、否、どうしても死ぬとハ思へません。そして、何か斯う突込んで見たい衝動に駆られた事もありました。私ハ決して死を恐れてハ居ません。寧ろ嬉しく感じます。何故なれバ、懐しい龍兄さんに会へると信ずるからです。天国に於ける再会こそ私の最も希ハしい事です。私ハ所謂死生観ハ持つて居ませんでした。何となれバ死生観そのものが飽まで死を意義づけ、価値づけやうとする事であり、不明確な死を恐れるの余りなす事だと考へたからです。私ハ死を通じて天国に於ける再会を信じて居るが故に死を恐れないのです。死とハ天国に上る過程なりと考へる時、何ともありません。  私ハ明確に云へバ、自由主義に憧れてゐました。日本が真に永久に続く為にハ自由主義が必要であると思つたからです。之ハ馬鹿な事に聞えるかも知れません。それハ現在、日本が全体主義的な気分に包まれてゐるからです。併し、心に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思ひます。  戦争に於て勝敗を見んとすれバ、その国の主義を見れバ、事前に於て判明すると思ひます。人間の本性に合った、自然な主義を持つた国の勝戦ハ火を見るよりも明であると思ひます。  日本を昔日の大英帝国の如くせんとする私の理想ハ空しく敗れました。この上ハ只、日本の自由、独立の為、喜んで命を捧げます。  人間にとつてハ一国の興亡ハ、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時ハ、実に些細な事です。驕れる者久しからずの例へ通り、若しこの戦に米英が勝つたとしても彼等ハ必ず敗れる日が来る事を知るでせう。若し敗れないとしても、幾年後かにハ...

特攻隊員の遺書 渋谷健一大尉【我が子へ】

「出撃に際して倫子、生れる愛子へ」 父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍的に総体当りを行ひ、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべきなり。父は死にても死するにあらず、悠久の大儀に生きるなり。 一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も又幼少にして父母を病に亡くしたれど決して明るさを失はずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思はば、空を視よ、大空に浮かぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。 二、素直に育て、戦勝つても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。 父は飛行将校として栄の任務を心から喜び、神明に真の春を招来する神風たらんとす。皇恩の有難さを常に感謝し世は変るとも忠孝の心は片時も忘るべからず。 三、御身等の母はまことに良き母、父在世中は飛行将校の妻は数多くあれども、母程日本婦人としての覚悟ある者少し。父は常に感謝しありたり。 戦時多忙の身にして真に母を幸福にあらしめる機会少く、父の心残りの一つなり。御身等成長せし時には父の分まで母に孝養つくさるべし。之父の頼みなり現時敵機爆撃の為大都市等にて家は焼かれ、父母を亡ひし少年少女数限りなし。之を思へば父は心痛極まりなし。御身等は母、祖父母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。 書置く事は多けれど、大きくなつたる時に良く母に聞き母の苦労を知り決して我儘せぬやう望む。 渋谷大尉は仙台飛行学校で特操1期の区隊長をしていた。自ら特攻精神を説き、そして特攻隊員に志願した。幾度目かの志願でやっと認められ若い搭乗員8名を連れて出撃散華されたとのことである。

特攻隊員の遺書 久野正信中尉【我が子へ】

「正憲 紀代子へ」  父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル、ヨクオカアサンノイイツケヲマモッテオカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ、ソシテオオキクナッタナレバジブンノスキナミチニススミリッパナニッポンジンニナルコトデス、ヒトノオトオサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。 「マサノリ」「キヨコ」ノオトオサンハカミサマニナッテフタリヲジット見テヰマス。 フタリナカヨクベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケドモフタリナカヨクシナサイヨ。 オトオサンハオホキナジュウバクニノッテテキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。 オトオサンニマケナイヒトニナッテオトオサンノカタキヲウッテクダサイ。 5才の長男と2才の長女に宛てた遺書。手紙を早く読めるように、当時最初に習ったカタカナで書かれたご遺書である。

特攻隊員の遺書 佐藤新平曹長【両親へ】

留魂録 「お母さん江」  幼い頃から思えば随分と心配ばかしおかけしましたね。腕白をしたり、又何時も不平ばかし言ったり。  目を閉じると子供の頃のことが、不思議な位ありありと頭に浮んで参ります。  悪いことなどすると神様に謝らせられたり、又幼い頃「今日の良き日をお守り下さい」「今日の良き日を有難うございました」と毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。  今日になり本当にあの頃からお母さんの教育がどんなにか新平の為になったことでしょう。病気で心配をかけたり、又苦学の時も随分と心配をおかけしたり。  苦学と言えば、言えを出発する時、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中頭に焼きついて、あの頃どんなにかかえりたかった事かしれませんでした。  お母さんの本当の有難味が解ったのは東京へ出てからでした。あれからあまり家に居る事もなく、ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかった事だけ残念です。  軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで来ていただいた時、あの時は新平嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。  態々長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂、わざわざ来なくても良かったのに等と口では反対の事を言って了ったりして申し訳ありませんでした。  あの時お母さんと東京を歩いた想い出は極楽へ行ってからも、楽しいなつかしい思い出となる事でしょう。  あの大きな鳥居のあった靖国神社へ今度新平が祀られるのですよ・・・・。手をつないでお参りしましたね。今度休暇でかえった時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。  去年の時もそうでした。 「お父さん江」  お父さん、新平、日露戦争へ行かれたお父さんの子供として恥ずかしくない死場所を得ました。お喜び下さい。  我が侭者の新平、子供の頃から何時も心配ばかりおかけ申し訳ございませんでした。  御恩返しに、うんと親孝行しようと思っていましたが、結局何も出来ずにしまいました事をお許し下さい。  随分大きくなるまでお父さんと一緒に寝た新平は、幼い頃お母さんに、お前はお父さんの子、文吾は俺の子等と言われたものでした。  厳格な半面、子供の時から人一倍可愛がって頂いた新平は本当に幸福...

特攻隊員の遺書 植村眞久大尉【我が子へ】

「愛児に遺した手紙」 素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。 私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思って、お父様が考へたのです。 私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。 お前が大きくなつて、父に会ひたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中にうかびますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると眞久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福のみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。優しくて人に可愛がられる人になつてください。 お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。  追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。 戦友達の配慮で長崎県大村基地から南方へ出撃する前夜、深更に東京の自宅まで軍用電話をつながれ、受話器を通じて赤ちゃんの泣き声を一声だけ聞いて出発したそうである。

白洲次郎さんの残した遺書【実業家】1902年2月17日~1985年11月28日

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葬式無用 戒名不用 日本の実業家。貿易庁長官。兵庫県芦屋市出身。 連合国軍占領下の日本で吉田茂の側近として活躍し、終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長を経て、商工省の外局として新設された貿易庁の長官を務めた。吉田政権崩壊後は、実業家として東北電力の会長を務めるなど多くの企業役員を歴任した。

小泉八雲さんの残した遺書【新聞記者】1850年6月27日~1904年9月26日

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「私死にましたの、知らせ、いりません。 もし人が尋ねましたならば、 はあ、あれは先ごろ亡くなりました。 それでよいです。 あなた、子供とカルタして遊んで下さい。」 ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン 。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。

円谷幸吉さんの残した言葉【悲劇のランナー】1940年5月13日~1968年1月9日

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遺書 父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。 敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。 勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。 巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。 喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。 幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、 良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、 光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、 幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、 立派な人になってください。 父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。 何卒 お許し下さい。 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。 日本の元陸上競技選手、陸上自衛官。 福島県岩瀬郡須賀川町出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。第一級防衛功労章、勲六等瑞宝章受章。